★4・28不当処分から28年目にして
処分撤回・原職奪還
を勝ち取る!
神矢 努[大崎局第一集配課] 復帰日 3月15日
徳差 清[向島局第一集配課] 復帰日 3月16日
やっとここまでたどり着いた。79年4月28日から28年かかって、ついに!めざしてきた「処分撤回・原職奪還」を実現することができた。全ての仲間の皆さんと共に勝ち取った勝利だ。本当に嬉しい。
最高裁決定から原職確定まで
2月13日、最高裁第三小法廷の書記官から弁護士事務所に「決定が出た。報道された事件でもあり、とりあえず報告したい。郵政公社の上告の不受理決定をした」と第一報が入った。
それから、一気にあわただしい日々が続く。
翌14日、早くも東京支社・小美野(法務担当・元大崎局総務課長)から弁護士事務所に「ああいう結果が出たので、支社として作業を進めていきたいと思っている。私が窓口になる。皆さんは復職の意思はおありですか」と電話があった。被免職者はただちに大崎局・向島局に電話して復帰職場を含めて当局の考え方を問い質す。
以降も支社から断続的に連絡が入る。
「3月上旬(1日ないしは10日)の復職を考えている」「ユニフォームの寸法を測りたい」「現在勤務している方はいるか。その場合区切りをどうするか」「俸給確定は本社で作業中」「一度、全員に来てもらって説明し、質問を受けたい」
我々も弁護士との打合せを行ない、原告団・弁護団会議の日程を2月22日に決めた上で、支社に対して「2月22日までに、復帰職場および過去の不利益回復の考え方を出すよう」申し入れる。
原告団・弁護団会議前日の2月21日、支社から「復帰職場は当然原局と考えている」「3月1日復帰が基本線」「俸給は仮りの俸給・号俸で」「バックペイの算定は考え方を整理中」
2月22日、地方の原告も上京し、原告団・弁護団会議を開催し、今後の課題を整理。 2月23日には、大崎局前で利用者に「勝訴確定」を報告し、当局に対しては「謝罪」など、基本5項目要求を読み上げ、当局の処分責任を追及する私たちの姿勢を示した。
(別掲)
「説明会」はさながら団交の場に
そして、2月26日、東京支社設定の「説明会」が開かれた。会場は新宿郵便局7階研修室。局入口には職制が2~3名。10分前にならないと入れないと言う。やがて定刻。原告7名全員が会場に入る。席は指定されていて、それぞれの席のテーブルには各人の氏名と所属局・課名、局長・総務課長・集配課長名が1枚の紙に書かれ、説明
レジュメや住宅手当・扶養手当・交通費などの申請書類と共に置かれている。
会場正面には東京支社の人事部・八木と名乗る者(これも元旦闘争などで指揮に当たる暴力職制)を中心に、給与や共済等の担当者など計7名。背後には、所属各局の人事事務担当者6名と会場係2名が座っている。
一通りの説明の後、被免職者から「謝罪」をはじめとする要求や質問が飛び、当初「1時間で終わるはず」と言ってたものが2時間を超えたのだった。
詳細は省くが、概略以下の通り。
「身分は復活、職場は原職」
(1)処分を取り消し、身分の復活。復帰職場(局・課)は原職。
(2)復帰日は3月1日。ただし各人の事情を考慮するが納得できる事情が必要。明 日(27日)、所属総務課長に電話説明の上、復帰日を確定してもらう。
勤務義務は復帰日から生じ、復帰日までは勤務義務はない。
(3)謝罪についてはコメントできない(本社に持ち帰れ!と要求)
(4)俸給は過去の昇給・昇格を見込んで発令するが、30年近い歳月の中で、計算方 法も何度か変わってきており、確定に時間がかかる。「仮決定」として発令する。
「共済」掛金も仮決定となる。
(5)有給休暇は3年分に限り、60日を発給。
(6)バックペイは、本社で「精算の対象」「期間」など、何を支払い、支払わないのか検討中。
(7)共済(年金・健保)の遡及加入と掛金の遡及徴収。
(8)「復帰後、被免職者に対する不当・不利益扱いを一切行なわない事」について は「話として聞き置く」という生意気な対応(支社として各局を指導しろ!と要求)。
(9)その他、定期健康診断の実施や勧奨退職制度の適用等も説明。
(10)話合いの継続要求も「これを最後に」という対応。
■要求や質問の中で「検討する」「持ち帰る」と答えた部分も多々あり、再度出される「公社案」を受けて、対応することとした。
そして、復帰日が確定した!
「説明会」翌日の2月27日。大崎局総務課長との電話でのやりとりで、神矢の復帰日は3月15日と決まった。翌日の16日を含めた二日間で「復帰辞令」「俸給発令」「共済組合員証」交付などの発令関係と、必要書類の提出と研修。勤務時間は「訓練線表」で8時半から17時15分まで。
二日間の訓練を終えたら、3月17日から有給休暇の消化に入り、4月2日(月)から本格勤務に入る事も確認した。
3月2日は書類作成の関係で大崎局に行った。総務課隣りの会議室で説明を受けながら作成。部屋の隅には制服の段ボールが届いてた。3月17日・18日の訓練スケジュールも。コンプライアンス、情報セキュリティ、犯罪防止、人事評価制度、JPS、接遇マナー、郵便業務、標準作業…。項目を聴いてるだけで頭痛がしてきた。本格勤務となる4月2日からはまず三日間の現場訓練を行なうという。「民営化後の帰属会社」についても「郵便事業会社・大崎支店」の内示通知も行なわれた。
徳差も向島局総務課長との話合いで、復帰日は3月16日で、17日までの二日間の研修を行ない、以降は有給休暇の消化となった。
「不利益の全面回復」など整理すべき課題も多々ある。それはそれとして対応しつつ、とにかく、私たちは念願の「処分撤回・原職奪還」を文字通り手にすることができたのである。こんな嬉しいことはない。
全ての仲間の力で勝ち取った勝利!
不当処分から27年10ヶ月。四半世紀を超える28年の苦闘がやっと報われた。その間、4・28闘争を投げ捨て、被免職者を切り捨てるという、労働組合にあるまじき全逓本部の裏切りもあった。それでも、「不当な処分は撤回させるまで闘う」「仲間の首は仲間の手で取り戻す」と、励ましあい、最後まであきらめずに、共に闘い抜いてきた被免職者、職場の仲間、地域・争議団の仲間たち、4・28闘争に心を寄せる全ての仲間の力を結集し、幾多の困難をはねのけて勝ち取った劇的な勝利だ。
私たちは本当に勝ったのだ。
4月中旬には4・28原告団主催の祝賀会が開催されます。
そして、4月29日には4・28連絡会主催で、皆さんへの感謝の気持ちを込めて、勝利報告集会&祝賀パーティ(別掲)を、盛大に開催いたします。全ての仲間の皆さんの参加をお待ちしています。この日、28年間待ちに待った勝利の美酒が味わえる。風薫る季節。ともに喜びをわかちあおう。本当にありがとうございました。
4・28連絡会
事務局一同
被免職者
大崎局 神矢 努
向島局 徳差 清
2007年3月7日
★処分撤回・職場復帰をみんなで祝おう!
4月29日(日)
品川プリンスホテル・メインタワーへ
(JR品川駅前)
●勝利!報告集会 13時~14時半
●祝賀パーティ 14時半~17時半
三下り半で公社に断を下した最高裁決定
最高裁決定直後、4・28弁護団の遠藤弁護士に今回の決定の意義について説明を受けた。
最高裁決定は別掲(「4・28通信」掲載)の通り、わずか5行で、上告不受理の理由は「申立ての理由によれば、本件は、民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない」という極めてシンプルなものだった。上告するには、「上告申立て」と「上告受理申立て」の2種類がある(「4・28通信」に条文掲載)。「上告申立て」は原判決が「憲法違反」が必要で、「上告受理申立て」は318条1項の定めで「判例に違反していること」「法令解釈に重大な疑義があること」が必要とされる。通常、「上告申立て」「上告受理申立て」の両方の申立てをするケースが多いが、
公社は、あえて「憲法違反」を主張せずに、「受理申立て」一本できた。多くの労働者・市民は「318条1項」で負けてきたが、今回、最高裁は、この三下り半で公社に断を下したのである。
この決定は決定的だ。高裁判決の「反マル生闘争は、全て組合の指揮によって闘われた闘争であり、個々人が勝手にやった闘争ではない。末端の組合員に責任はない」という判決内容も、私たちの「高裁判決は、名古屋中郵最高裁判決など過去の判例に合致し、公社の上告には理由がない」という主張もそのまま認めて、処分取り消しを
みとめたのである。さらに、池田君(赤羽局)の場合、一度「取り消し請求」を取り下げたことから「解雇無効」を申立て、他の6名の原告の「取り消し訴訟」と併合となったのだが、この「無効確認訴訟」は、「処分に重大かつ明白な違法」が必要であって、これをクリアして勝つのは1000分の1以下というくらい厳しい裁判だが、これも勝利したのである。その意味でも完全勝利と言っていい。
現場闘争の力でもぎ取った勝利だ
しかし、それでもわずか5行の文面に、なぜ2年8ヶ月も要したか。最高裁は、相手が「国」しかも「民営化を目前に控えた労働情勢」を考えた時に、「勝たすか負かすか」という政治判断だけで、考えあぐねた末の結論だったと言える。
私たちは、今回の勝利決定について、「裁判だけで勝ったのではない。現場実力闘争の力でもぎ取った勝利だ」と確信しています。
1990年、全逓本部が4・28闘争切り捨て方針を打ち出してくる中、自らの力と連帯共闘の力で「処分撤回」「原職奪還」をかちとるべく「4・28連絡会」を結成した。以来、当局の争議責任は現場闘争で追及するという構えをもって、大崎局・向島局、東京郵政局に対する闘い、郵政大臣に対する直接追及、郵政公社になってからも、元旦闘争など公社総裁追及の闘い、民営化法成立以降は、事実上の経営トップに立った日本郵政㈱への闘いの踏み出しなど、職制数十名による暴力的敵対や警察権力と一体となった弾圧をはね返しながら、闘い抜いてきた。
郵政当局に対して、「解決を決断するのか、それとも民営化以降も争議まみれにするのか」という選択を強制すべく闘ってきた。勝つためにはやれることは何でもやっていきたいという気持ちで当局に向き合い、当局の暴力性、冷たさを肌身に感じながら闘ってきた。現場を闘ってきたからこそ、執念を持って裁判闘争も主体的に闘って闘ってこれたのだと思う。そして、ついに、民営郵政に争議を引き継がせないという最高裁の政治判断をも引き出したのではないか。
こうした姿勢と闘いは、勝利判決後の「被免職者排除のためのシフト」を打ち砕いていく力となるに違いない。裁判で勝ったが、決して裁判だけで勝ったのではなかった。私たちは、たしかに現場闘争の力で勝ったのだと思う。
問われる全逓(JPU)の責任
最高裁決定を受けても、被免職者が自力の闘いで職場復帰を実現した今に至っても、JPU(全逓)本部は、見解一つ出していない。
4・28処分は、言うまでもなく全逓本部の指令・指導に基づく闘い=反マル生闘争に対する報復処分だった。解雇3名、懲戒免職58名(うち55名は東京地本)を含む8,183名という大量・過酷を極める処分だった。
全逓本部は、この処分に対して「4・28処分の名実共にわたる撤回なくして労使関係の改善はない」と言い切った。
しかし、処分から11年目の1990年8月、全逓本部は「8・22文書」を発出し、「連合新時代を迎え、全逓運動の今後を考えたとき4・28反処分闘争は邪魔」だとして、闘いの終結を強行しようとした。 被免職者を組織から叩き出すために、「労使対立は終わった」「4・28裁判を取り下げろ」「全逓から出て行け」と「指導」の名の下に恫喝を繰り返した。
受験資格のある40才以下の被免職者には郵政外務再受験を、40才以上の被免職者には郵政職場をあきらめ、関連企業や民間への就職斡旋を迫り、いずれも裁判取下げを条件とし、「指導」に従う者には札束を積み、それに従わない者には裸で全逓から叩き出すという、まさに処分の撤回も職場復帰の方針も投げ捨て、「それが組織の
ため」とまで言いなした。
38名の被免職者が4・28裁判を取下げ、全逓を脱退させられた。そして再受験に応じた被免職者14名は全員不合格となった。そして、受験も就職斡旋も拒否した6名の被免職者が残った。
1991年5月22日、「4・28闘争の終結」を議題とした「第99回臨時中央委員会」が議案すら全国職場に配布されない状況の中で開催された。会場前にはロープが張られ、その後ろに100名の本部防衛隊を立たせ、400名の機動隊に守らせ、多数の私服公安を富士見ハイツの敷地内各所に配置し、公安に弁当まで配った。
被免職者を先頭に全国の組合員・支援の争議団・地域の労働者150名が駆け付けた。しかし、99臨中は被免職者の傍聴要求すら拒絶し、密室で終結を強行した。
そして、6月30日、「裁判取下げ」も「全逓脱退」も拒否し、「臨中決定無効」と「4・28闘争の継続・強化」を訴える被免職者に対して「犠救打ち切り」「組合員資格剥奪」を強行発令した。「臨中決定は無効だ。反処分闘争の継続を求める」組合員署名の呼び掛けにわずか二週間たらずで6700名の組合員が応じた。
1991年7月の全国大会(千葉市)では、200名の仲間が結集し「署名を受け取れ」と会場入口で迫った。しかし、またも本部防衛隊、200名の機動隊を配置し、署名受け取りを拒み、臨中決定は承認され、組合員資格剥奪も承認された。あの時の悔しさは、今もって忘れることはできない。
労働組合が、自らの指令で闘い、首になった組合員を切り捨てたのだ。事業の発展のためなら、解雇撤回闘争も職場労働条件も投げ捨て、全逓の名称も闘いの歴史も捨て去り全郵政とも合併していく、JPUの今日の姿は、あの時から始まったと言える。
全逓弁護団は本部の要請で全員が辞任し、被免職者6名が残った。
1991年1月「4・28連絡会」を結成した。新たな弁護団(6名)も結成し、1992年5月25日、中断していた裁判は1年半ぶりに再開された。その後、一度取り下げた被免職者池田君が解雇無効裁判を起こし、4・28裁判に併合・合流を勝ち取り、原告は7名になった。そして、本部が切り捨ててもなお支え続けた全ての仲間の力で、今日の勝利を勝ち取ったのである。
こうした勝ち取った4・28闘争の勝利は、「処分攻撃に屈せず」「全逓本部の切り捨てに抗して」「超長期の闘いを強いられながらも」「現場組合員・職場労働者を信じて」「裁判ー現場を貫く闘いを」「自力実力・共闘の力で」勝ち抜いた画期的な勝利だった。
そして同時に、この勝利は「労働組合とはいったい何なのか」ということを鋭く問いかける「一石」となるに違いない。そうなってほしいと思う。
この勝利を、JPUをつき動かす原動力に! 最悪の労働条件に苦しむ現在の労働条件を変えていく力にしていきたい。全国の争議団闘争勝利への推進力にしていきた
い。
連絡会の今後の運営について
全逓本部に切り捨てられた1991年に「4・28連絡会」が結成され、「事務局・例会運営」「4・28通信の発行・発送」「現場闘争の展開」「全逓全国大会闘争」など、今日まで17年間にわたって、皆さんに支えられて闘い続け、処分撤回・原職復帰という嬉しい結末を迎えることができました。
被免職者はこれから元の職場に戻ります。しかし、謝罪もしない当局の対応を見れば、復帰以降も被免職者の排除を狙った不当・不利益な対応に出てくることも十分予想されます。従って、当面の間、「4・28連絡会」「4・28通信」を存続させ、どんな事態にも対抗できる態勢を残しておくことにしました。
会費・カンパの要請については、これをもって終了とさせていただきます。もし、それでも送金されましたら、「通信」発送費としてありがたく使わせていただきます。
「通信」はこれまで、毎月7千部から1万部を発行し、5百数十ヶ所への発送や朝ビラなどで配布してきましたが、莫大な経費もかかり、今後は、希望者等を除いて発送を中止することにしました。また、毎月発行から不定期発行になります。
長い間、厳しい生活を抱えながらの会費・カンパのご協力、4・28通信のご愛読、本当にありがとうございました。
[4・28連絡会 事務局]
《被免職者の喜びの声》
28年。書けば二文字だが…。
向島局 徳差 清
28年にもわたる4・28反処分の闘いに思いを寄せ、ご支援、ご協力を頂いた全ての皆さん。どうもありがとうございました。
2月13日の最高裁による郵政公社の上告への不受理決定により、私たち4・28被免職者への懲戒免職処分の取り消しが確定しました。
郵政当局による不当な4・28処分に対し、これを許す事なく原職奪還ー職場復帰を追い求めてきたその思いが、闘いが、反処分闘争、裁判闘争の勝利へと結びつき、原局・原職である向島局・第一集配課へと戻る事になるわけです。
75年に26才で入局し、先輩たちや同僚、後輩たちと共に反マル生闘争を闘い、4年と28日目に受けた不当な懲戒免職処分。
人事院公平審が取り組まれ、裁判への提訴、そして行動も取り組まれていく中で、しかし全逓本部(現JPU)は当局との労使協調の推進を図りながら、反処分闘争の終結、組合員資格ハク奪という手段まで講じて、被免職者の切り捨てを強行しました。 被免職者に職場復帰を諦めさせ、郵政当局による不当処分を正当化させるような、こんな攻撃に負けてはいられない。
被免職者と、そして郵政職場の仲間、地域の労働者、争議を闘う人々の協力の下に、自力・自闘の闘いが始まる。不当処分を発令した郵政当局へ、被免職者を切り捨てた全逓本部へ、そして新たな弁護団の下での4・28裁判などなど。
このような闘いの積み重ねの上に、28年目に今回の勝利を勝ち取る事ができました。
28年。書けば二文字で済みます。しかし、この中には様々な事が凝縮しています。 思いおこせば…。その場、その時、その年でいろいろな事がありました。現場闘争での不当な刑弾攻撃、これへの反撃。組合員資格裁判での勝利。4・28裁判での地裁不当判決、高裁での逆転勝利判決、今回の最高裁での不受理決定等々。
当該局の局長も当時から数えると、もう何人目になるでしょうか。
28年という長い歳月になりましたが、皆さんのご支援の下で、決して諦める事なく闘いを継続できてきた中で、勝利への水路が切り開かれてきました。
本当にありがとうございました。原職奪還ー職場復帰を実現できました。
仲間の後押しで今、局の中へ
大崎局 神矢 努
こんな嬉しいことはない。皆さんに感謝の気持ちで一杯です。
10月1日の郵政民営化以降の闘いも、最高裁不当決定以降の闘いも見据え、腹を括って闘い抜こうと胸中決意を固めつつあった矢先でした。
最高裁決定のあったその日も、国会図書館に行って「民営化と争議の継承問題」などいろんな資料を調べまくり、疲れて帰って、調査結果を池田君に電話すると、「争議の継承?エッ?ナニ、ひょっとして知らないの?」「何が…」「最高裁決定出たんだよ」「エッ!で、どっち」「勝ったんだよ」。ショック!誰も教えてくれなかった。地域の仲間(ふじせ労組)に急ぎ報告電話すると、もう知っていて「みんな知ってるよ。神矢さんどこにいたのぉ」ショック…。
民間争議の団交を重ねて解決に至るのと違って、突然来るから戸惑ってしまう。しばらくは喜びどころか実感も湧かず、ボーッとしていた。1時間くらいもたったろうか。電話帳を開いて猛然とダイヤルを回し始めた。
79年4月28日。あの日の朝8時過ぎ、庶務課長らが私の区分台にきて処分辞令を読み上げた。「懲戒免職!」。職場の仲間たちの怒号。課長席前のシュプレ。緊急昼集会。局長室に向かって廊下・階段を駆け上がる局内デモ。局長室前のシュプレ。東京郵政局前集会と構内デモ。あの日から27年10ヶ月も経っていた。全逓からの切り捨て、暴力職制との攻防、逮捕弾圧、東京地裁不当判決と再びの逮捕弾圧、いろんな事があったが、闘ってきてよかった。何があっても常に仲間がいたから頑張れた。これから職場に戻る。郵便配達をする。28年ぶりの再出発だ。
パパ、やったね!スゴイね!(娘)
赤羽局 斉藤 登
1990年の4月に娘が誕生し、その夏に全逓の方針転換。「再受験→再採用」という疑惑の選択すらなく、裁判の継続が当然の結論だが、そのことを公表するまでに時間がかかったことを思い出す。
2年前にワープロが壊れるまで、それまでの闘いなどを整理していた。そのなかに多くの人の名前がある。国相手の闘い、裁判なのだから「革命でもなければ勝てない」との声もあった。さらに私自身の至らぬ点、にもかかわらず多くの人が4・28反処分の闘いを支えてくれた。赤羽局での早朝の行動や寒風のなかでのデモ、元旦闘争など。「4・28原告団」だけでも1800万円を超えるカンパが寄せられた。
この闘いの経過だけでも貴重であるが、それが処分取り消しという実を結んだのだ。不当な免職処分から28年。弁護団、支援の皆さん、そして不幸にも亡くなられた郵政や地域の仲間。ありがとうございました。
この日を信じていた
赤羽局 池田 実
この日がきっと来ると信じていました。提訴を取り下げて再受験、そして不採用、今度は全逓からの首切り、どんな苦しいことがあっても仲間を信じ、現場を夢見ながら、見えないゴールへ向けて駆け続けてきた28年間でした。争議は短期決戦が望ましいことはもちろんですが、逆に長ければ風が変わりチャンスをくれることもある。全逓の裏切り、郵政の民営化など、一見こちら側への逆風が、結果的には追い風に作用したのかもしれません。でも他力本願で進まないことはあたりまえ、心ある全国の仲間のみなさんからの熱いサポートを受けながら闘いを継続していったことが勝利の原動力となったことは間違いありません。心から感謝します。
これからは初心に帰って、一労働者として民営分社化という荒波に立ち向かっていきます。28年ぶりの現場、不安がないと言えばうそになりますが、それより現場の匂い、新しい仲間との交流に今からワクワク、ドキドキしています。どうかみなさん、お手やわらかに。
原告以外の被免職者にも
立川局 庄野 光
長期にわたるご支援ありがとうございました。
4・28懲戒免職処分に対して、04年6・30高裁判決は、「重大かつ明白に違法」と断じ、6人に対して免職処分を取り消し、1人について無効確認した。これを不満とする郵政当局の上告が不受理決定された。この勝利は、多くの支援の皆さんや弁護団の奮闘によるものです。本当にありがとうございました。
この処分全体に流れる基本的な考え方は、とにかく職場闘争をつぶせとばかりに、処分の違法性を考慮せずにとにかく現場の活動家の首を切ってしまえ、という荒っぽい処分だったのだ。だから審理が進む過程で、デタラメ・違法事例がたくさん出てきた。最たるものは高裁での東京郵政局・人事課長の証言「指導者と単純参加者の区別を考慮せず、処分量定において地位の上下間で不均衡があるが不問にした」だった。 「東京高裁の判断も最高裁の判断も、4・28懲戒免職処分全体に適用される判断」ですから、今回勝訴した7人に続き、取り下げざるを得なかった被免職者が新たに無効確認訴訟に立ち上がることを期待します。私は、その裁判を応援したいので、人事院闘争、裁判闘争の資料を保管しておきます。
●1・24日本郵政㈱闘争
団交要求書初めて受け取る
1月24日。虎ノ門の日本郵政㈱社前に21名が結集。昼休みの時間帯、近隣のサラリーマンの注目を受ける中、団交の申入れ。「高裁勝利判決(公社職員としての地位確認)を得ている今、なぜ被免職者に帰属会社の内示発令が日本郵政からないのか」「10月1日、公社は消滅し、日本郵政が裁判当事者になり、争議も引き継ぐ。事実上の経営トップとして4・28争議をどう解決するのか」と追及。ピケットに立つ職制は「知らない」等の対応だったが、裁判については「10月までは公社の方で」などと。被免職者・参加者の追及で「一応受け取る」と言明。「西川社長の回答を求める」には「はいはい」。「職名と名前を」と問うと、渋々「総務の長澤」と答える。要求書を初めて受け取らせた。
回答期限の2月10日を過ぎても回答がないなら、再度日本郵政闘争を計画していたが、2月13日最高裁勝利決定が出たのだった。
●最高裁決定後の大崎局闘争
「まず被免職者に謝罪を」と迫る!
最高裁決定から10日経った2月23日の午後。小雨の降る中、20名が結集。この大崎局前での闘いも一つの「街の風景」として定着するほど長い闘いになっている。局利用者にこれまでの注目と激励に感謝して「勝利判決確定!」を報告。そして、当局はというと、相変わらず窓口前にバリケードを設置してのピケット体制。総務課長は「被免職者の復帰対策」で支社に出張ということのようで不在。マイクで「原職復帰」「謝罪」「一切の不利益回復」「復帰後の不当・不利益扱いの禁止」を求めた要求書を読み上げる。そして、労担に受け取りを求めたが、相変わらず拒否。しかし、いつもとは明らかに態度が異なり、被免職者の問い掛けにも耳を傾ける。最後にシュプレ。要求書はその日のうちに中村局長宛てに配達証明で郵送した。いつもは、日を置かずに封も切らず返送されてきていたが、今回、まだ返送されてきていない。
●全郵政中央委員会、JPUに対して
「闘う組合員排除の方法を考えろ」
2月8日・9日、全郵政中央委員会が千葉県で開かれた。
議題の中心は、「JPU(全逓)との組織統合」の承認だ。
委員長あいさつでは「JPUは全郵政の求めに対し、過去の労々対立時代における旧全逓運動の非を率直に認めると共に、さらに『生産性向上』と『自由にして民主的な労働運動』に大きく踏み出すなどJPUの強い意思が表明された」と語り、一般活動報告でも「JPUとの組織統合に向けた協議は、全郵政の主張に沿った検討が行われ、JPUが大きく全郵政に歩み寄った形で進んでいる」(組織部長)と、「全逓の全郵政化」が着実に進んでいることを宣言している。
*
議案討論でも「JPUの総括原案が支部まで浸透するのか」などの発言を受けて、本部の総括答弁は「(組織統一の基本は)全郵政運動の継承があって、それを基本とした精神での運営だ」「左右の全体主義の排除は、一定の準備期間中に具体的事例を示して、排除の方法や、意識の変化を今後協議でJPUに求めていく」。そして「JPUの総括に記載された内容の精神が、JPUの地方・支部それぞれの機関でどのように論議されるか見極める」。その上で「6月の全郵政大会(東京)で最終判断する」と恫喝している
*
「JPUの総括案」とは、通信前号で紹介した通り、先輩たちが築いてきた闘いの歴史を改ざんし、踏みにじり、総懺悔的に「全郵政に謝罪し」、労働条件の向上や労働者の権利など投げうって「生産性向上運動を基本とする全郵政の綱領・運動方針に従う」。そして「組織方針や運動に逸脱した行動等は内部で整理する」というものだ。 「左右の全体主義の排除」とは言うまでもない。生産性向上運動に名を借りた人減らし合理化や労働条件の悪化・権利剥奪に抵抗し、職場運動や反戦平和運動を闘おうとする組合員を排除し、「その方法をJPU自ら編み出せ」と言っているのである。 全郵政「PUC(退職者の会)」役員は、もっとあけすけに言ってる。「①JPUの総括が支部役員や組合員の言動にどんな変化をもたらすのか注視しよう」「②全郵政運動の理念や方針の共有を拒み、これに背を向けた旧全逓体質をひきずっているグループ・組合員を毅然と排除できるのか、また自浄作用が期待できるのかを見極める必要がある」(全郵政新聞2月26日号)。
労働条件の向上をめざして闘う労働者を強引に排除して何が労働組合か。
JPU「統合・新組合」も「労働組合」とは名ばかり。戦時下、「生産力の拡充」と「日常的な労務管理機構」として取り込まれ、「労使一体」「スト絶滅宣言」までして、労働者を「産業戦士」にしていった「郵政産業報国会」に等しいものだ。
JPU6月沖縄大会で全国現場組合員の総意でひっくり返そう!
JPU中央委員に4・28勝利の報!
最高裁勝利決定の翌々日の2月15日。JPU中央委員会の初日だ。
4・28連絡会は、「合併批判」の「通信」前号と、「4・28最高裁勝利決定」の「通信」速報を手に、会場の水道橋「全逓会館」前に。
新聞報道のせいか、中央委員は一様に表情が硬く緊張気味。反マル生闘争まで否定する総括と全郵政への謝罪。その委員会に「4・28勝利」の報らせが届いたのだから。東京地本小川委員長はビラも取らず逆切れ状態!
全逓運動の変遷と4・28闘争の経過
1946. 5 全逓結成
1958~59 団交再開闘争
1962. マル生攻撃開始。全郵政結成
1967. 労務政策変更闘争へ
1977. 5 最高裁名古屋中郵事件反動判決
1978. 公労協統一ストで全逓脱落
8 「53・10」輸送反合闘争
12 全逓反マル生越年闘争(~1月下旬)
1979. 4 4・28不当処分発令
10 労使関係改善「10・28確認」
1980. 5 人事院公平審査始まる(52名)
1982. 7 蒲郡大会/30年総括~交渉重視に転換
1983. 7 神奈川大会「制度・政策闘争」
1984. 2 59・2郵便輸送システム~翌配体制へ
1985. 3 「郵政事業改善計画」企業意識の注入
1986. 5 人事院不当判定(1名のみ停職に修正)
1987.11 第一次活性化計画~マンパワー高揚
1989. 総評解散、「連合」結成
1990. 8 本部「4・28闘争終結ー8・22文書」発出
被免職者38名裁判取下げ
10 被免職者6名呼び掛け「緊急集会」
1991. 1 「4・28連絡会」結成
4 反処分集会に 260名
5 臨時中央委員会「反処分闘争終結」
150名で抗議行動
6 被免職者の組合員資格剥奪
7 終結反対!組合員署名6700名
全国大会「臨中決定承認」
11 第二次活性化計画~事業危機の扇動
本部、活性化計画を評価~労使パートナー
1992. 1 当該局(大崎・向島)窓口前闘争開始
5 4・28裁判再開
10 東京郵政局・大臣闘争開始
1993. 3 「新夜勤」導入
4 全逓「安保・自衛隊・原発」積極容認
1994. 1 郵便料金大幅値上げ
2 全逓中央委「全逓は方針上も政策上も、
郵政省と対立する関係にありません」
7 佐賀大会「コスト論に立った政策提言」
10 短時間職員制度の試行導入
1995. 2 「考動指針」発出
6 大崎局朝ビラで神矢・徳差不当逮捕!
1997. 3 東京郵政局、人事交流=強制配転開始
7 全逓「綱領」廃棄
11 東京郵政局、連絡会排除の鉄扉工事
1998. 2 郵便番号7ケタ化=第一次2500名削減
10 4・28裁判ー原告証言開始
12 組合員資格裁判ー最高裁で勝訴確定
郵便内務5000名削減=非常勤化
1999. 1 本部との交渉で組合員資格回復!
2 全逓中央委「事業発展はスリム化と体
質改善を。5000名削減で終わらせるな」
6 神矢、7年半ぶりに大崎局組合室に入る
9 徳差、支部大会で代議員発言
7 滋賀大会、組合規約を「組合目的を事
業の発展に置く」と変更。 120名で集会
11 大崎局闘争で被免職者に制裁処分策動
2000. 7 広島大会「20世紀の清算~権利・労働条
件より仕事の価値を創造する労働運動へ」
11 年賀はがき発売日闘争で大臣に肉迫
2001. 1 省庁再編で「郵政事業庁」発足
3 郵便新生ビジョン案(全逓・全郵政合意)
全逓「聖域もタブーも廃し全体で痛みを」
8 4・28裁判ー東郵・人事課長証人勝ち取る
近畿郵政局長、高祖参院選挙違反で逮捕
10 4・28裁判ー当時の石井平治委員長が証言
12 4・28裁判ー最終準備書面( 309頁)提出
2002. 3 4・28裁判ー東京地裁不当判決!
東京郵政局包囲デモ/連絡会&赤羽共催
4 鳥井電器解雇撤回闘争で神矢令状逮捕!
4 新集配システム「受箱・対面配達」の切
り分け=非常勤化 129局で試行実施
10 「人事制度改革」案提示ー全逓積極評価
10 4・28裁判ー控訴審(東京高裁)闘争開始
11 郵政イベント闘争に職制47名暴力三昧
12 トヨタ生産方式(JPS)の導入
2003. 1 元旦闘争(新宿局)に凄まじい職制暴力
3 郵政公社発足
5 「アクションプラン・17000人削減」発表
12 全逓臨時大会「名称変更=JPUに」
2004. 1 元旦闘争(総裁追及)に街宣カー戦術
2 「連続深夜勤」導入~過労死続出
4 「新人事制度」=成果主義を導入
6 4・28控訴審・東京高裁逆転勝利判決!
6 JPU旭川大会闘争、勝訴を手に闘う
2005. 5 JPU委員長、全特総会に出席し、過去
の特定局制度撤廃闘争を謝罪。
6 JPU大会に生田総裁・全特会長が挨拶
8 民営化法案、参院で否決。衆院解散
9 郵政総選挙、小泉自民圧勝
10 郵政民営化法成立
2006. 1 持株会社・日本郵政株式会社発足
2 JPU臨時大会ー民営化対応へ転換
全郵政中央委「JPUとの合併」提案
郵便集配1000局廃止提案
3 日本郵政㈱闘争開始
9 JPU、全郵政に反マル生闘争を謝罪
12 日本郵政㈱、民営後の人事労働条件提案
2007. 2 JPU中央委「合併は全郵政綱領を基本」
4・28裁判ー最高裁で勝利決定!
3 被免職者の処分撤回・原職復帰を実現!
4・28反処分闘争に勝利したぞ!
短信コーナー
■ふじせ闘争28周年デモ
2月2日、学研の下請けプロダクション。組合結成されるや業務を総引上げ、倒産=全員解雇に追いやった。この日、学研争議責任追及!五反田デモを南部交流会集中闘争として110名の仲間が結集して闘った。
■全国争議団交流会/神戸で最終企画会議
2月4日、ワゴン車で向かう。全国の争議団26名が集い、各地の争議団状況や関西生コン支部に対する実刑攻撃など弾圧状況などを共有。3月の交流集会(欄外)の成功に向けて、基調やスローガン・役割分担など最終打合せを行ない、関西の仲間の手作りオデンで交流。
■関西三現場闘争を闘う
企画会議翌日の2月5日。朝はアルバイト・パート・派遣労組(あぱけん)のツチダ産業の解雇通告に社前闘争、そして、大阪長居公園のテント生活者排除の強制代執行攻撃当日の闘いに合流して抗議行動を闘った。シメは港合同・南労会支部の松浦診療所前昼集会。帰りもワゴン車。
編集後記
■長い闘いもいよいよ終わろうとしている。26歳で首を切られて今54歳。きつかったのは確かだが「青春も人生も台なしに」とは思ってない。
■きついのは自分だけじゃない。戦争国家化と愛国心の強要、一切の抵抗を摘み採る治安管理と弾圧、労働者への犠牲の強要はリストラ・格差社会、精神疾患・自殺を増大させ、果ては仕事を奪われ野宿を強いられた仲間を公園からも追い立てる。これが私たちの住んでいる日本という国だ。
■首を切られたことで、多くの仲間と出会い、結びつき、共に闘うことができた。そして共に勝つことができた。闘うことは楽しかった。当局・権力に日々やり返せたから。仲間と一緒に闘えたから。
■4月29日。祝賀会でその仲間たちと抱き合える。