藤商会闘争
高田馬場1丁目は高田馬場ではない
高田馬場1丁目、ここは、本来なら戸塚町とか、諏訪町と呼ばれる町なのです。戸塚は宝泉寺境内の富塚からきて、諏訪は諏訪神社からきています。早稲田通りに面した辺りが戸塚町、戸塚第二小学校がその名残です。大部分は諏訪町でした。
なのに、なぜ町名が高田馬場かと言うと、駅名が高田馬場だったからです。その駅名は、堀部安兵衛で有名な、西早稲田3-1〜14辺りにあった、馬術の練武場の名前を、国鉄が、地元の反対を押し切って付けてしまったのです。
ですから、高田馬場は、離れた史跡の名前であって、駅周辺の地名ではなかったのです。
西早稲田は早稲田の西ではない
戸塚町、高田町、諏訪町にまたがる地域だったのですが、早稲田大学があるので、町名を早稲田にするため、「西」を付け足したのです。
何故、東京専門学校から大学へ昇格したとき、早稲田の名が付いたかと言うと、早稲田鶴巻町に蘭学者・松本順が病院と学校を建てたから、その縁でと言う説。大学公認のエピソードとは、ちょっと違うのです。
旧諏訪町にあるスワビル
2Fに藤商会が入っている、それだけのビルです。藤商会の社名が目立つだけで、史跡、旧跡などありません。事件が一つだけ、真面目な従業員を一人、不当な手段で解雇しただけです。
で、いま、会社は、真面目な従業員に、責め立てられています。苛めじゃありません。懲らしめているのです。悪いのは、藤商会なのですから。現代は勧善懲悪の時代です。正義は我にあると信じ、悪徳経営を名指ししましょう。
私は、在職中、仕事をサボる上司・尾下責任者を懲らしめました。多分、困らせもしたのでしょう。尾下責任者を懲らしめていたら、会社も懲らしめなくては、ならなくなってしまったのです。
何が何して何となったか、事例で説明します。
私は藤商会の社員でした。でも、勤め先は、国際基督教大学(国際基督教大学の存在理由を参照)、職種は警備員です。構内警備ですから、学内の施設の戸締り施錠も仕事なのです。
建物の施錠で、尾下責任者と私が組んだのです。1番者の、尾下責任者が夜に施錠する。翌朝、2番者の私が、開錠する。そういう組み合わせでした。夜の施錠で手抜きをすれば、翌朝の開錠時に判ります。
手抜きか掛け忘れか、「施錠せず」が多いのですよ、この人は。警備職は、勤勉でなくてはと思い、本人に報告するのです。
何しろ、上役ですからネ。気を使いました。
「企画室の窓と総務課の窓がノーロック、208Dの窓もノーロックでした。それから、1Fの湯沸かし器、オフになっていませんでした」
と、報告に間違いがあってはいけないと、メモって読み上げたのです。
最初は、フンフン、と目線をそらしながらも聞いてくれていました。この段階で、奮起して、職務に精を出してくれていたら、問題はなかったのですが。
「総務課の窓がノーロック、201の自動ドアがノーロック、それから企画室のドアがノーロックでした」
と度重なるのです。報告するのも辛いものです。職務とはいえ、
「俺だから黙って聞いてるんだ。他の奴なら、気分わるくするぞ。2番者の役目は、1番者の補助もあるんだ」
と尾下責任者から言われて、重苦しいものが落ちました。反省しない奴なんだと判ると、気楽になったのです。
それからも施錠ミスを報告しました。すると、
「いちいち言うな。メモで渡せ」
私を直視しないで言うのです。もう、ヤメロ、と遠回しに言っていたのでしょう。でも、この頃の私は、上役の粗探しに、楽しみを覚えていたのです。
私は言われたとおり、メモに書いて渡しました。メモを差し出すと、人目に触れない様に、受け取るのです。
ですが、やがて、メモも受け取らなくなりました。
「俺に報告するな。班長に報告しろ」
尾下責任者の下が班長です。その下が副班長、その下が平、私は平でした。班長を盾にした訳です。直訴はダメということでしょうか。
解雇理由の捏造
「ある女性に対し、性的いやがらせ行為を働いたから、解雇する」
と、やってもないセクハラを理由に解雇されたら、素直に従ってはいられないでしょう。抗議するでしょう。抗議して、争議になりました。昨年の11月から、続いています。
平成13年11月、解雇されてしまいました。この日、本社からやってきた筒井常務は、解雇通告を読み上げるや、明日を待たず、今すぐ辞めろと言い。尾下責任者に至っては、すぐ荷物をまとめろと、ダンボール箱を持ち出してきたのです。怨みつらみが溜まっていたのでしょうか。
労働争議を長く続けていられるのは、解雇された従業員が頑張っているからです。一人頑張っているのではありません。労働組合と、支援してくれる仲間が、一緒になって闘ってくれているからです。私の所属する組合は、三多摩合同労働組合、立川に事務所があります。
2002年10月1日
抗議先
株式会社 藤商会
代表取締役 藤島 正美
東京都新宿区高田馬場1-28-2
Tel.03-3208-7041
|
国際基督教大学の存在理由
―大学と工場と空襲―
戦争で負けた、ある国は、政府が定めた宗教で、国を統率していました。国教を受け入れた国民は、教祖のためになら、死ねとすら教義されていました。飛行機で敵に体当たりし自爆する狂気も、作戦と位置づけする国家でした。
遠い国の出来事とは、違います。今を語ろうとしているのでもありません。時代を幾つか遡って辿り着く、昔話の世界です。
昔話は、東京西方の都市、武蔵野市と三鷹市の地から始まります。敗戦前まで、武蔵野市に中島飛行機武蔵製作所があり、三鷹市には中島飛行機三鷹研究所がありました。敗戦後、存続を許されなかった企業です。
大正6年、群馬県太田市に誕生した航空機メーカーが、中島飛行機です。敗戦前は、陸軍の主力戦闘機、隼、鍾馗、疾風などを製作した大手航空機メーカーでした。中島飛行機が、三鷹市大沢の地に移転してきたのは、昭和16年のことでした。
三鷹研究所での逸話。昭和20年、敗北放送を聞いた直後、工員たちは、所内にあった食料・物資を持ち出し始めた。灯火管制用の厚手の黒いカーテンすら持ち去ったとあります。国家主義から個人主義に移行した瞬間です。
国家主義の下、ここで研究試作されていたのは、キー87戦闘機とキー115戦闘機でした。キー87は、対B29用の高高度戦闘機として開発されていたのです。
ボーイングB-29スーパーフォートレス戦略爆撃機は、第二次世界大戦末期に出現した、卓越した性能をもつ爆撃機でした。
死者、10万人を数えると言われる「東京大空襲」は、出撃機数325機になる、B29の大編隊による空爆でした。昭和20年3月10日、午前零時から始まった空襲は、風下から風上に向かって投下する、視界の確保を計算に入れた爆撃だったのです。東から西へと西風に合せて、3時間あまりに亘って、焼夷弾を投下し続けたのです。東京は、市街地の6割を焼失しました。
三鷹市には研究所が、武蔵野市には工場が造られました。中島飛行機武蔵製作所です。我が国最大の航空機用エンジン工場でした。自社の戦闘機は勿論、日本を代表する戦闘機、三菱重工のゼロ戦、このゼロ戦のエンジンは、中島飛行機製で、この武蔵製作所で生産されていたのです。
標的にされました。
昭和19年11月24日、B29編隊(出撃機数111機)による本格的な空襲です。攻撃目標は、中島飛行機武蔵製作所でした。この来襲で100名近い犠牲者が出ました。近くにある東伏見稲荷、その境内に天幕を張って安置所をつくり、犠牲者を収容したのです。
直撃による人体の損傷がひどく、身元確認に難航したと記録にはあります。爆弾は、人体を粉砕します。直弾には、地面に直径10メートルもの、すり鉢状の穴をあける破壊力があります。記録誌に人数の表記がありますが、何をもって数えたのでしょうか。胴体は千切れ飛んだでしょうに。
高高度を飛行し、陸軍の高射砲を受け付けなかったB29ですが、天候が不良だと、爆弾投下の照準が定まりません。天候の良し悪しが、爆撃成果を左右するのです。
昭和19年11月27日、東京の市街地を襲った大空襲は、武蔵製作所を目標にして、出撃したB29の編隊(出撃機数81機)が、天候不良のため、標的を市街地に変更しての、盲爆によるものだったのです。
昭和20年2月25日、東京は雪でした。武蔵製作所上空で旋回したB29の編隊(出撃機数229機)は、都心の上空に侵入して行きました。雪雲を下に敷いての爆弾投下です。神田一帯への無差別爆撃でした。3月10日の前触れを思わせる、猛爆撃が行われたのです。
武蔵製作所と三鷹研究所は、5キロほどしか離れていません。武蔵製作所は、三鷹駅の北、徒歩20分ほどの所にありました。現在の、武蔵野市役所、市立陸上競技場、武蔵野中央公園などが、跡地に造られた施設です。
武蔵製作所の施設は、現存していません。二百余名の犠牲者を出して、建物は全壊しました。保谷市にある東伏見稲荷神社境内に、武蔵製作所殉職者慰霊碑が残るだけです。
戦勝国は、敗戦国の改造に着手します。新憲法が生まれ、信仰の自由が保障されました。憲法は条文を書き換えて、公布すれば済みますが、宗教の改造には難しいものがあります。自由を理念に置いた下で、信仰の強制・排除は出来ません。帝国が国民に信奉を強制した宗教は、強力なものだったのです。
敗戦後、中島飛行機三鷹研究所は、GHQの管理下に置かれました。その敷地は、60万坪あったそうです。
中島飛行機が三鷹に移転するにあたり、用地買収が行われました。昭和18年に倉敷飛行機を買収していますが、昭和15年、大沢の3百数十名の地主から土地買収を行い、この敷地を確保したのです。敗戦後、この土地が、元の地主に戻る事はなかったのです。
GHQに渡った60万坪の跡地のうち、55万坪が<>国際基督教大学(ICU)に売却されたのです。1949年(S24)に創立したICUが、1950年に、敷地を購入しています。その資金元は1948に設立された財団の募金活動によるものとされています。
現在、三鷹研究所の跡地に、国際基督教大学(ICU)、ルーテル学院大学、東京神学大学、野川公園(のちにICUが、ゴルフ場を東京都に売却)等の施設があります。公園は別にして、キリスト教を軸にしたものです。
跡地に現存するものがあります。設計本館と泰山壮です。泰山壮は、書院・待合などをもつ日本庭園。設計本館がICUの大学本館として使われています。中島飛行機の軍需施設として、現存する設計本館は、時代の証言者として、保存するに値する建築遺産なのです。取り壊さないで、残して欲しい建物です。