委員長のきまぐれ「週報」 「争議団的暮らしとは」

第29回 黄昏れゆく2002年
( 2002年11月5日〜2002年12月4日)

組合活動週報
11月5日 労働法連絡会事務局
6日 旭ダイヤ仮処分審尋・地裁前情宣、出版関連労組交流会議秋年末交流集会
8日 機械一族追及Y&J、明大生協労組大学会館前
9日 ケミカル社長宅包囲デモ
11日 ふじせ学研社前闘争、大道赤羽技術専門学校情宣
12日 ふじせ学研第3ビル朝ビラ、中大生協キャンパス情宣、三信自動車社前
13日 ふじせ学研第2ビル朝ビラ、旭ダイヤ本社情宣
14日 労働法連絡会・全労委総会情宣、鳥井電器闘争支える会
15日 渡辺工業東大竜岡門前、品川・杉並区長会闘争、三一書房決起集会
16日 ふじせ闘争支援共闘会議、大道社長宅包囲デモ
17日 中部労組定期大会
18日 大地地労委審問、機械Y&J、南部交流会例会
19日 洋C有罪判決阻止霞ヶ関デモ、ジャパマー東映本社
20日 洋C刑事論告求刑公判
21日 4・28連絡会東京郵政局前、共同行動「共謀罪」法制審議会抗議デモ
22日 教育社高森自宅、南部労組・鳥井支える会合同会議
23日 三河島社長宅前
24日 全国交流会企画会議(関西)
25日 関西現地行動(港合同南労会支部松浦病院前、関単労黒川乳業社前、ジャパマーハイツ梅田Tジョイ前)、出版関連労組交流会議作業・例会
26日 日本ブリタニカ社前
27日 ふじせ学研社前、教育社社長宅
28日 日野遺跡労市役所、全金本山みずほ銀行、明大生協労組大学前
29日 ふじせ支援共闘会議、渋谷のじれん代々木公園管理事務所団交
30日 大口製本三芳本社工場朝ビラ、加部建材本社闘争
12月2日 品川臨職共闘地労委審問、4・28連絡会審問、南部労組会議
3日 柴法争議団弁護士会館前情宣、廣川書店労組社前集会
4日 森川健康堂東京本社闘争


 紅葉から落ち葉の季節を迎え、私たちの闘いは秋から年末へと展開されています。
 11月は、20日の洋書センター刑事公判で全員に懲役1年6ヶ月の求刑が行われました。洋書センターの刑事事件とは、組合潰しの子会社解散、解雇攻撃を仕掛けた親会社極東書店に対する洋書センター労組の団交要求行動を威力業務妨害、逮捕監禁などとして、5名を逮捕し起訴、10か月の長期拘留を行ってきたものです。会社前で出勤してきた社長が立ち止まり、組合側が彼に争議を解決するように説得した行動(立ち話の状態)が逮捕監禁とされるなど、許せない話です。検察側はむろん全員の実刑狙いの求刑を行ってきたわけですが、当該そして支援共闘会議のメンバー以外で唯一逮捕されたSさんは、当該Nさんから行動要請のビラを受け取ったというだけで、極東書店の菅野社長を逮捕・監禁することを共謀したと認定されました。それなら、Nさんからビラをもらって現場に行った他の労組・争議団のメンバーも皆同じことになります。
 Sさんは争団連事務局、そして中部交流会のメンバーであるということで標的にされ逮捕されることで、この弾圧が洋C闘争を支える共闘関係を対象にしたものであることも浮き彫りになりました。この事件では「争団連、洋C支援共闘会議の計画的・組織的犯行である」とされたわけですが、この当初の警察・検察の立証主旨は、裁判が進行する中で大きく後退したかの印象があります。論告求刑要旨の中でも、もはやそんなことは言われていません。洋C支援共闘会議で方針が決められたことは言っていますが、争議団連絡会議がそれに関与したかのような当初の扱いは影を潜めています。そんなでっち上げは法廷で立証しようもなかったのです。しかし、求刑内容は、Sさんには当該・支援共のメンバーと全く同じ位置にいて共謀したという扱いがされたわけです。
 「洋C弾圧」(と私たちは縮めて表現していますが)は、組織的犯罪対策法(警察・検察が組織的犯罪と見なした団体の行動には法廷刑が加重される、組織犯罪を取り締まるという名目でその団体の電話等を警察が盗聴できる、等)の先取り的な弾圧として仕掛けられ、いままた論告求刑では、Sさんに見られるように「共謀罪」新設の先取りとしての刑の執行が目論まれています。「共謀罪」は、国際組織犯罪条約批准に向けた刑事法制改悪の一環として新設されようとしています。当サイトがリンクを張っている「破防法・組対法に反対する共同行動」の訴えによると次のようなことです。
 現行法では、実行行為をなした「組織犯罪」について『共謀共同正犯(刑法60条)』 を課しています。ところが、今回の『共謀罪』は、4年以上の懲役刑を規定している犯罪について、実行行為がなくとも、話しあったり相談したりするだけで懲役3〜5年の刑罰を科すというのです。
 この法律の適用に当たっては、実際に犯罪が行われたどうか、本当に実行する意志があったのかは一切関係ありません。例えば、労働組合で「逃げ回っている経営者に直談判をやるか」と協議しただけで、反戦団体が「アフガニスタンを爆撃している米軍基地の実体を詳しく探ろう」と相談しただけで犯罪とされてしまうのです。居酒屋で酔っぱらって「あいついっぺん殴ってやるか」と放言しただけでも、『共謀罪』として逮捕され、投獄されてしまうのです。
 違法な行為は考えても喋ってもいけないという法律は、憲法で保証された「思想・表現の自由」を奪うものです。また、この法律が「団体規制法」として労働組合や反戦団体へ恣意的に適用され、弾圧に利用されるのは目に見えています。「結社の自由・団結権」は踏みにじられ、形骸化してしまいます。
 未だに、現行の「共謀共同正犯」と混同している人たちもいたりして、十分に知られていませんが、ウルトラな法律が制定されようとしていています。予防拘禁を可能にする新たな保安処分立法も国会通過が目論まれていて、今まさに日本の治安国家化の様相をかいま見る思いです。9・11以降の米国主導の「反テロ」という名目での戦争拡大と一体化した各国での治安弾圧の激化と私たちは争議現場で「差しで勝負して」いるようなところがあります。治安体制、資本の有りようを規定するグローバル化や国際会計基準、規制緩和の波をかぶる労働法制等々、現場で争議を闘う中から多領域で見えてくる「世界水準」というものがあります。それだけでは狭いであろうと、社会の各方面からの見方とつき合わせるのですが、現場感覚を持っていることは、そうした突き合わせに手応えを与えてくれます。
11月2日の土曜日、争団連例会と重なって行けませんでしたが、「9・11以後の国家と社会」についてのシンポジウムが白金台の明治学院大学国際学部付属研究所の主催で行われました。友人が参加して、彼からパネリストの基調発言をコピーしてもらいました。見田宗介、竹田青嗣、橋爪大三郎、宮台真司の各氏の基調です。これらにつき詳しく論じる紙幅も力量もありませんので、内容を私なりに要約し、気がついたこと、感じたことをコメントします。
 司会を務めた加藤典洋氏が、最初に9・11以降の世界への視点と課題設定を述べています。2001年9月11日の米国での出来事は、19世紀以降の国民国家間の戦争や20世紀の東西冷戦と異なる、「新たな戦争」という見方がされているが、国民国家の枠を越えた問題を前に、国家を論じるにも新しい考え方が必要になっている、という感慨から
出発し、「今回のテロは、非政府組織による一超大国への攻撃でした。もし、国民国家を単位とする現在の国際社会秩序を否定し、非国民国家レベルの民間組織を主体として現状の改革をめざすというプログラムに立った場合、その最後の究極の方法がどういうものになりうるかをそれは指し示しています」との見方を提示し、「テロリズム実行者と同じく、国民国家体制ではもう絶望的展望しかない、と考えるのではなく、国民国家体制でもって矛盾解決にむけ、努力していくしかない」「国民国家の体制と資本主義のシステムという従来の文法でもって、どう対処していくか、ということではないか」との提起を行っています。そして、それを見田宗介氏の「現代社会の理論」(1996年)の視覚につなげて考え、彼以降の社会学者の橋爪、宮台氏、批評家の竹田氏と共に考えていきたい、として、シンポジウム企画の意図を述べ、各人に9・11をどう見たか、国家の問題(国民国家の限界の問題)、社会の問題(世界規模の人口問題、資源問題、南北問題、成熟社会の問題等)、民族・国民・文化・文明の問題をどう考えるか等を問うています。
 そこでパネリストが登場するわけですが、私は、加藤氏のこの解決軸の設定自体に、まず異和の感覚を持ちました。国民国家体制を批判し、否定する運動がすべてテロリズムに行き着くしかないと言うように聞こえるわけですが、これは違うと思います。加藤氏のこの立論は、過去の左翼の反国家運動の歴史的経過(日本共産党や連合赤軍等)とその帰結への本質批判を、国民国家を越えていく質を持った運動総体に当てはめる形になっている一種の混同があります。とは言え国民国家へのこの拘泥は、氏が「敗戦後論」で、ナショナリズムの問題を避けたまま新たな憲法理念を冠した戦後社会のねじれを論じた際にも、日本の戦争犠牲者への哀悼を通じてアジア諸国の犠牲者へ向き合う道筋をつくるとして、「国民国家」を内在的に超出していくことへのこだわりを示した文脈につながっているものと思われます。その後、氏が侵略で血塗られ汚れた日の丸を国旗として掲げ続け、日の丸のイメージを新たに変えていくまで引き受けていくと言うにまで至ったわけですが、そこまで行くとこれはアイロニーとしてしか成り立たないな、という感想を持ちました。これまでの提起は避けて通れない問題に対する方法論としてまでは言えるでしょうが、今回の提起はどうでしょうか。国民国家の手前で佇み、従来の文法で対処するしかない、というのでは、問われている「国民国家の限界」を越えないばかりか、越える通路の潜在を否定しているように読めてしまいます。
 見田宗介氏は、加藤氏のこの提起をそのまま引き取ってはいません。新訳聖書の「ヨハネの黙示録」でバベルの塔(ローマ帝国)の崩壊を願い、反逆と報復の夢想を共有し育んできた下層キリスト教徒を扱ったD・H・ローレンスの「アポカリプス」と原始キリスト教の苛烈な攻撃的パトスと陰惨なまでの心理的憎悪感に焦点を当てた吉本隆明氏の「マチュウ書試論」を取り上げ、これらが共通に描いているものは、現代のイスラム教徒のうちの不遇の人々の心情を映す鏡となっているとしています。氏はイスラムのエクストリーミスト(極端主義者)のテロリズムへの帰着をこうした感情において捉え、それを規定づける「関係の絶対性」(吉本)に触れて述べています。避けがたく、行き着くべくして到達した悲劇へ通じた「イスラムのテロリズム」の置かれている状況は、大きな課題を突きつけていますが、しかし、資本・国家に抵抗・対抗する運動のすべてが同じ関係の絶対性の中に投げ込まれているわけではありません。関係の絶対性は固有のものです。そこはやはり加藤氏が上記のように言っているようにはならないと思います。見田氏は、関係の絶対性を強いる構造の総体を、総体として捉えて解体し、転回する思想の確立なくして、真に「自由な社会」はないとして、これを越えていく手がかりを、吉本氏の転回としての「自立」から、さらに民衆の自立へと敷衍し、またロレンスの太陽系の一部、地球の生命として、血管に海の水が流れる人間という存在の事実に根拠をおいて、求めています。たとえばアフガニスタンの民衆の自立と私たちの高度の情報化・消費化社会の内部の人間の自立が対なるものとして「外部の諸社会、諸地域を収奪し、汚染することのないような仕方で、自由と幸福の持続可能なシステムを構想することとして、「現代社会の理論」の中での追求を持続してきていると結んでいます。96年の氏の「現代社会の理論」は、いま思えば、グローバリズムの進展の渦中における課題を捉えて書かれているなと見ることができます。そして、氏にとっては9・11の事件を経て、より確信を得たということなのでしょう。
 続いて竹田青嗣氏は、「自由と平等の二律背反」と題して提起。資本主義は1929年の世界大恐慌、第2次大戦後の冷戦構造、に続いて第3の危機を迎えており、社会主義の選択肢は廃棄されたが、資本主義の矛盾の克服の「可能性の原理」は見いだされていない。南北格差の暫時的拡大は決定的現実であり、貧しい国の「絶望」をいっそう増大させる。思想は、絶望から生じた「テロ」とそれへのリアクションとしての過剰防衛との世界情勢を調停し克服する考え方を作り出す必要がある。そして、資本主義の矛盾を批判しうる原理的根拠が、反資本主義の現代ヨーロッパ思想の多くが資本主義の矛盾的性格と一体のものと見なしている近代「市民社会原理」にあることを述べます。資本主義も社会主義も「自由と平等の二律背反」を解けなかったが、近代の市民社会原理から「自由」であるにもかかわらず経済的支配構造を作り出す「資本主義」の性格を剥離し(これを狭義の「資本主義」と呼ぶ)、この側面を克服する方法を構想することである、としています。(「現代社会の理論」はこうした本質的な課題をはじめて自覚的に提出したという。)その方法として竹田氏は、経済的支配構造が政治支配と結びついている現行の「資本主義」に対し、ルール社会原則の正当性を対置し、中でも社会をルールゲームとして機能させない最大の要因である「国家」という利益共同体としてのあり方を越えること、「市民社会原則を国家間に拡張しうる可能性によって克服する」、としています。
 私から見るとこの立論の難点というか困難な点は、「市民社会原則」の拡張というところにあります。拡張しうる市民社会原則というものの内実といってもいいと思います。経済学者の平田清明氏らが1968年以降展開した市民社会論やフランスのレギュラシオン学派等の問題意識と重なる部分もあると思いますが、哲学・思想における研鑽を重ねてきた竹田氏の市民社会原則とはどのようなものか、深化される必要があるのではないかと思います。私たちにとっては、資本と対抗する現場からの闘いが紡ぎ出すものに関わる問題で私たちなりの道筋をつけていく課題だと思います。
 続く橋爪氏は、ポスト冷戦期のアメリカの基本戦略に焦点を当てて解説的な見解を述べていますが、それを肯定しているのか、彼自身の独自の考えは示されず、おもしろくありませんでした。
 最後に登場した宮台真司氏は、なかなか刺激に満ちた提起を行っていますが、やはり宮台氏特有の観点に少し異論があります。
 まず、9・11事件に対し彼は、僕の最初の印象は、まさしく近代社会の「底が抜けた」という一言に尽きます、と述べています。近代社会を成り立たせる大前提は、不特定多数を根拠なく「信頼」することである、として、今まで大方の人間が社会を生きる自明性を手放さなかったために、この信頼を破る人がいないことで維持されていたものが、一定割合でこの自明性を手放し「脱社会的存在」となる人々が出てきた、これは顔見知りでない無数の人々との関わりで成り立っている近代社会のサステナビリティ(存続維持可能性)の根幹が揺るがされていると解釈しています。そして、この結果起こることとして、犯罪が起きないように管理社会を徹底する立場と、一定割合でテロが起こって人命が失われる可能性があるが、知らない人への「信頼」を放棄して全員疑ってかかるようなことは自由社会をスポイルするからやめようと腹を括る立場で、その両極のどこに落とし所を見いだすか、アメリカでもその他の近代国家でも、これから永久にせめぎ合いが続くだろうとの見方を提示しています。そして、このリスク社会の脆弱さに対処するには、近代社会の外側に突き抜ける人間が出来るだけ出てこないよう動機づけを手当てする以外、根本的方法はない、資本制的時間尺度自体が近代社会のサステナビリティにとって命取りになる可能性があり、環境問題には長いスパンの生態学的時間尺度が、また命を恐れないテロ実行犯のように宗教的時間尺度に従う存在の想定が必要であることに留意を促しています。ただし、「イスラム原理主義」という呼称は、アメリカに原因がある政治的動機を、宗教で覆い隠すためのアメリカ製の陰謀語であるとも指摘しています。そのアメリカの報復攻撃については、第一に、破られた規範を貫徹する意思を、当事国のアメリカが示すのは当然、第二にタリバン攻撃の形を取るのは後続テロ抑止に役立たない、第三に歴史的に蓄積された屈辱感に基づく嫌米感情という動機づけを手当しない限り、問題解決は永久にない、第四に動機づけを手当しないまま攻撃すれば、動機づけを持った人間は追いつめられることで近代社会への敵対動機を先鋭化させる、と述べています。それは排斥・隔離ではなく、包括や包含として機能する手立てである、というものです。この後、氏は今回の事件への対応において自立性を持たない日本政府を批判、また米国社会も一枚岩ではなく、政府内でも暗闘が存在していることに触れた上で、9・11以降の事態の中で近代社会を維持するという最大の公益性を守るために従来の枠を越えた政治的判断や法形成が必要になるが、そこで問われるのは、政治家の高度な資質と、それを見抜くマスコミや民衆の民度であると結んでいます。
 宮台氏らしいはぎれの良い明解なもの言いですが、私がひっかかったのは、「脱社会的存在」となる人々、近代社会の外側に突き抜ける人間という言い方が「逸脱した存在」への類型化を免れていないのではないかという危惧です。逸脱した行為というものの契機は社会に内在し、すべての人々に関わっていると私は見ます。結果としての「逸脱した人々」の動機付けへの手当、包括というものは、対象療法的に響くのですが(「政治的判断や法形成」というもの言いが余計そう感じさせる)、社会(近代社会である必要があるのか)が逸脱する契機となる問題を解決する豊かさを持つかどうか、というのが本質的な問題だと思うのです。先の見田氏の「関係の絶対性」の観点から「逸脱」を解いていくべきだと考えるのです。
 このシンポは私の関心を惹いたので、少し長く触れました。なお、このシンポの内容が「論座」という雑誌の1月号に掲載されるそうですが、ここに触れた基調提起の部分でなく、その後の会場での討論部分が載るなら読んでみたいと思っています。
 宮台氏も警告しているように、息苦しい超管理社会の方へと米国も日本も傾斜しつつあり、社会の中に解決能力を育む道とはほど遠い行程を歩んでいます。警鐘は社会の中に響きわたっているとはいえません。あれから1年以上が経過し、2002年ももうすぐ暮れようとしていますが、ミネルヴァの梟は飛び立ってはいないのでしょうか。
 私たちは自戒しつつ自らの闘いの歩を進めていきたいと思います。

追記
現在の国家と社会を考えるという点で、「発信25時」フリートークの方に支援の仲間が投稿している「ラチがあくか、あかないか」という論考も、ご一読ください。