委員長のきまぐれ「週報」 「争議団的暮らしとは」

第26回 九州での出逢いと別れとすれ違い
( 2002年2月16日〜2002年3月27日)

組合活動週報
2月16日(土) 組対法共同行動エシュロン集会
18日(月) 「ふじせ闘争」作成、加部刑事高裁判決、争団連事務局・全国交流担当者会議、南部交流会例会、ジャパマーハイツ東映本社
19日(火) 杉並庁舎前闘争・集会(北部集中)、杉並保育園
20日(水) 機械Y&J、三信社前、鳥井支える会
21日(木) 鳥井電器駅頭・本社、品川臨職庁舎前、鳥井西友申入れ、ふじせ闘争支援共闘会議
22日(金) 大道道後自宅、4・28拡大会議
23日(土) 九州へ
24日(日) 自分史文学賞授賞式闘争、木下君実家弔問
25日(月) ケミカル社前・藤商会基督教大学(労争連集中)、出版関連労組交流会議例会
26日(火) 4・28連絡会大崎局、労働法連絡会事務局会議
27日(水) 鳥井闘争拡大会議
28日(木) 行政訴訟判決、教育社秋山・遠藤解雇裁判判決、加部三井道路、「莽」作業
3月1日(金) 労働法連絡会全体会
2日(土) 争団連事務局・例会、機械イベント
4日(月) 大地市川センター・PCCWJ社前(西部共闘集中闘争)、南部労組執行委員会
6日(水) 中央洋書仙川駅頭ビラ、ふじせ闘争支援共闘会議
8日(金) ジャパマーハイツ日本アカデミー賞情宣
9日(土) 全国交流会出発
10日(日) 全国争議団交流集会(福岡)
11日(月) 全国結集行動(福岡)
13日(水) ふじせ弁護団会議、南部交流会発送作業、鳥井中労委書面提出
14日(木) 4・28地裁前情宣
15日(金) 学研社前闘争(本社朝ビラ)
16日(土) 南部交流会集中討論
18日(月) 出労交臨時例会
19日(火) 学研3ビル朝ビラ、教育社高森自宅、本山ユーザー
20日(水) 学研2ビル朝ビラ、南部労組労働相談、洋C神保町情宣、争団連事務局・全国
21日(木) 南部労組会議、北部共闘春季集会
22日(金) 品川臨職庁舎前、鳥井電器解雇7周年社前昼集会
25日(月) 出労交作業・例会
26日(火) 聘珍樓吉祥寺、旭ダイヤ申入れ、藤商会社前
27日(水) 機械Y&J、4・28五反田イベント、4・28処分取り消し裁判判決


 ご無沙汰しました。今期は私たちの争議での行政訴訟控訴審判決など、裁判所の不当な判決が続く中、いろいろな闘いが取り組まれましたが、それらは他の記事を参照ください。2月、3月と続けて九州行きがありました。2月は学研が後援している北九州市自分史文学賞授賞式が恒例行事としてあり、会場のリーガロヤルホテル小倉前で地元の支援の仲間と共に抗議・情宣と市教育委員会文化振興化への申し入れを行いました。数年前から自分史を綴ることがブームになりました。私たちの市への申し入れは6年ほど前から行ってきていますが、その趣旨は次のようなものです。
 末吉市長の箱もの行政は問題になっているようですが、この文学賞が、北九州市がいち早く自分史という一人ひとりにとってかけがえのないモチーフに基づいた作品に光をあてた試みであるとう点には注目をしました。自分史は文学ではないという考え方もありますが。しかし、この文学賞の後援を学研から受けているのはおかしいと考えています。その後援引き受けの経緯は学研の創業社長の故古岡秀人氏が小倉の出身であること、選考委員の佐木隆三氏(元八幡製鉄労働者)が学研の編集者として就職したとき、秀人氏から「二足のわらじを履くのは時間の無駄だ、創作に専念しなさい」と言って仕事なしで給料だけ与えられたことから恩義に感じ、後年、北九州市から受賞作の発刊を頼める版元の紹介を求められて、学研との橋渡しをした、ということのようです。そのようなきっかけは分からなくはありませんが、学研が「自分史文学賞」に相応しいかはまた別の問題です。学研は古岡秀人社長時代から一族経営で労働者弾圧=暴力労務政策をくり返してきました。私たち下請を含めてそこに働く者の「自分史」を踏みにじってきたのです。佐木隆三氏もかつて新日本文学会にいて、「労働者作家」として売り出したわけですが、その後、全学研労組への弾圧に抗議する知識人の連名に加わらず、また、相応しくない会社と知った上で自分史文学賞後援の橋渡しをしているのは、その恩義に背くことはしたくない、という考えからでしょう。佐木氏はいつも会場前で私たちのビラを受け取って、困ったような顔をしています。抗議声明に加わらなかったことや学研との橋渡しをしたことを、とやかく言うつもりはありませんが、ほんとに古岡秀人氏を大事に考え、学研のことを思うのであれば、学研が問題体質を改め、争議を解決し、後援を引き受けるのに相応しい版元になるように働きかけることこそ、取るべき道ではないかと思うのです。佐木氏は毎年のように会場前でお見かけするのですが、その点ですれ違ったままの関係に終わっているのは残念なことです。もっともそれよりも、学研の実態を私たちから知らされても後援を依頼し続けている北九州市の姿勢こそ問題なのですが。
 周知のとおり学研は一部上場企業の大手出版社です。しかし、そのような「権威」に依拠しているが故のこととすれば、自分史という一個の人間の「人知れぬ」重みをもった生をテーマとした作品に与えるこの文学賞の意味を否定するに等しいものと考えます。出版社の文芸雑誌等の賞は多くありますが、中には文学的価値とは無縁の、選考委員の間の談合で、委員自身がまわりもちで受賞しているような、「文壇」的権威に堕していると批判されても仕方のないものもあります。本来、文学の振興を図るそれなりの志を表明し、その努力を蓄積することに対しては社会的な評価がされ、出版社は自らの責任において、この評価・批判に向き合わされているはずです。しかし、マスコミ出版業界のかばい合いの中で、企業自身が抱えている問題を指摘し、描く言論や文学等は闇に葬りさられてしまう構造があります。 地域文化の振興を志すならば北九州市の自分史文学賞はそのような「権威」から離れ、自立したものでなければならないでしょう。もっとも、このところ学研のそのような「権威」など地に落ちているのですが。学研の問題体質は、最近、子会社の悪徳商法などを通じて社会問題化しつつありますが、北九州市は、マスコミ沙汰にでもならければ良しとする態度なのでしょう。
 今年は2月の小倉行きのついでに一昨年の自分史文学賞大賞の受賞者である玉井史太郎氏にお会いしに行くつもりをだいぶ前からしていたのでしたが、年末に入って別の用件が九州で入りました。掲示板にも記載しましたが、ふじせ労組のメンバーで郷里の宗像市に帰っていた木下君が癌で入院したのです。そして、2月6日未明、すい臓癌で急逝しました。享年50歳。酒と山頭火を愛する一本気な男でした。ふじせ労組結成で自宅待機処分をはね返し、争議当初活躍するも、家庭の事情で帰郷、その後も私たちが九州に行く度に会い、ふじせ行政訴訟にも協力を約束してくれました。証人候補にも立てていて、昨年11月に打ち合わせで上京、拙宅に泊まって話し込みました。12月に電話すると「福岡のがんセンターに入院する」と言っていたので、2・24小倉でのイベント闘争の後に見舞いに行く予定でしたが待っていてくれませんでした。争議決着の時を共にすることができなかったのが悔やまれます。24日、実家に弔問に行き、ご両親、息子さんと会ってきました。
 さて、そんなわけで玉井さんのところには、3月10日に福岡で開催された全国争議団交流集会への参加の前日に伺うことになりました。彼が三男として管理している若松にある火野葦平旧宅を 訪れました。二年前の授賞式の会場前でお会いしてから、たびたび激励の言葉をお手紙の中で頂戴していたのに、九州行きの機会はあっても、なかなか挨拶にも伺えませんでしたが、ようやく二年ぶりにお邪魔し、話をすることができました。この旧宅=河伯洞は市の文化財にもなっていて、私が訪問したときも、見学者が絶えず、玉井さんと夫人がそれぞれ説明・案内を行っておられました。玄関には、葦平原作の映画「花と龍」の上映会などイベントが行われるらしく案内が掲示されていました。暖かく迎えていただき、玉井さんに葦平の書斎や展示物の説明をしていただきました。展示物の中に医師の中村哲氏の最新の著作物が置かれていました。長年アフガニスタンで医療活動を行い、昨秋9・11以降の米国の空爆と日本の参戦に際し、現地体験に根ざした気骨ある発言を行い、国会の参考人質問でも自衛隊の派遣は「百害あって一利なし」と堂々と述べた氏が火野葦平の甥であることは少し前に知りましたが、展示されている祖父の玉井金五郎氏と大変よく似ていることを改めて感じました。自ら井戸を掘り、アフガン民衆とまさに生死を共にしてきた中村氏はすごい人だなと思っていましたが、その強い意志をかんじさせる面構えが「花と龍」の主人公としても描かれている玉井組の親分から受け継いだものなのだと感じ入ったわけです。玉井家は三代にわたって頑張っていますね、というと史太郎氏は笑っていました。当時、日本一の石炭積み出し港だった若松で沖仲士の頭領だった父金五郎の玉井組の半纏を着て、火野葦兵も青春の一時期、若松港沖仲士労働組合を結成、その書記長に就任して、三井、三菱や中小の資本家が結成していた石炭商同業組合を相手に労働運動に情熱を傾けました。そして、同じ頃、中村哲氏の父親で火野葦平の妹秀子の婿である中村勉氏が全協(日本労働組合全国協議会)の活動家として検挙され、数年の実刑を課せられるという弾圧の時代(上海事変勃発の1931年)を生きてきています。この直後、葦平は転向し、やがて戦地へ赴き、「麦と兵隊」などを書くことになるわけですが、戦後、有名作家である父に反発して青年期を過ごした史太郎氏も、父葦平の自殺後、労働に勤しむべくいろいろな職業を転々とし、その過程で給水会社で労組を結成し委員長となるなど労働運動を経験していることが、受賞作「河伯洞余滴」にも描かれています。
 二年前、私たちが抗議するイベントの当の主賓であった玉井さんが、私たちの闘いに共感を寄せてくださっているのには、こんな背景もあったと思われます。玉井さんと夫人を交えて、二時間近く楽しく話をし、火野葦平につき、まだまだ知られていないことがあり、彼が追求したものなど、これからも辿っていきたいという抱負などもお聞きすることができて良かったと思っています。この次は飲みながら話しましょう、などと言って河伯洞を辞してきました。
 故郷ではないのですが、九州は何かと縁があるところのようです。今回は争議にまつわる出逢いや別れやすれ違いの一端につき書きました。