委員長のきまぐれ「週報」 「争議団的暮らしとは」

第18回 社長追撃=争議団は名探偵?
( 2001年4月3日〜4月28日)

組合活動週報
4月3日(火) 4・28連絡会向島郵便局闘争
5日(木) ふじせ闘争支援共闘会議
6日(金) ス労自主竹芝エッソ社前、西部共闘春季集会、南部労組会議
7日(土) 争団連事務局・例会
9日(月) 出労交作業・幹事会
10日(火) 南部交流会集中闘争(品川臨職共闘庁舎前−ス労自主エッソ包囲デモ−ふじせ労組学研社前闘争)
11日(水) 渡辺工業東大竜岡門・社前闘争
12日(木) 機械工業新聞経営一族抗議闘争、京都−滋賀合同労組中労委審問、中部労組旭ダイヤモンド社前闘争、教育社ニュートン闘争
13日(金) 出版関連労組交流会議集中行動(連帯大口製本三芳工場闘争)、出版関連労組交流会議春季集会
16日(月) 中部集中闘争(全金本山労組・富士銀&みずほ包囲デモ)、品川臨職区長会闘争
17日(火) 三河島そうじ団・社長宅闘争
18日(水) 日野遺跡労・市役所闘争、東工大弾圧・刑事公判
19日(木) ふじせ労組・東京国際ブックフェア情宣闘争、南部交流会例会
20日(金) 争議団連絡会議統一行動(大道測量社前・東京地労委抗議・ジャパマーハイツ東映本社・加部建材朝霞工場)
21日(土) 機械工業・一族追及蕨自宅闘争、組対法・刑訴法改悪阻止集会
23日(月) 4・28向島郵便局イベント闘争、出版関連労組交流会議例会
24日(火) 南部労組鳥井電器社前闘争
25日(水) 明大生協労組駿河台闘争
26日(木) 三河島そうじ団社長宅闘争
27日(金) 赤羽共に闘う会・局前闘争−総務省前抗議集会、南部集中闘争(4・28大崎局前闘争−反処分闘争22周年総決起集会)
28日(土) 争団連臨時例会



 このかん、春季集会や統一行動・集中行動などが目白押しでしたが、一段落しました。私たちの南部地域では、4月10日に3つの現場を貫く統一行動、4月27日には郵政における不当処分と闘う4・28闘争22周年への集中した闘いが行われました。4月20日に行われた争団連統一行動では、早朝から夕刻まで4つの現場行動を共に打ち抜き、地労委勝利命令を背景に争議解決を迫る大道測量闘争、東京地労委のまたぞろの審問での腕章着用への禁止の動きに対する闘い、重要局面に入っているジャパマーハイツ闘争、刑事弾圧をはね返して闘う加部建材闘争のそれぞれの闘いを前進させる行動となりました。これらの内容に関する報告は「発信25時」の別のページも見てください。
 さて、前回は、ユーザー闘争に関してある社長さんの対応につき書きました。今回は直接の争議責任者である社長や役員への追及行動について、ふじせ闘争に即したエピソードを紹介しましょう。
 争議解決のための団体交渉を要求する場合、その第一の現場は会社であることは言うまでもありません。しかし、争議を引き起こして開き直るような会社ですから、素直に私たちを迎えてくれるはずもありません。争議を抱えている会社は門扉など、会社入り口に「○○労組とこれを支援する者たちの立ち入りを禁止する」と書いた札を貼るなどして排除の姿勢を取ってきます。学研は争議を抱えていることを知られたくないため、ふじせ労組排除の立て札を普段は駐車場脇に置いて人目につかないようにし、私たちが行ったときだけ出すようにしています(せこい)。
 会社前で抗議行動をやったり、受付に通せと動員された職制やガードマンと対峙したりしますが、社長ら経営上層部の人間は卑怯にも社内に隠れて表には出てきません。そこで、役員らを直接追及する機会を捉えての行動を組む必要も出てきます。
 倒産争議で会社が無くなってしまったケースでは逃亡する経営者の所在を把握して自宅や立ち回り先で追及しなければなりません。これだけが理由ではありませんが、社長らの動きをある程度把握することをはじめ、経営動向につき調査・探索することは争議団にとって必須の課題となります。その詳細をここで書くわけにはいきません。争議団の闘いは、これからも続きますので、その方法をすべてオープンにはできません。ただ、警察等、公権力を行使した捜査と違い、大きな制約がある中、実に多様な工夫と苦心の上に、相手の動向を把握していきます。争議団はときどき名探偵をやっていると言って良いでしょう。
 ふじせ闘争でも、学研から指示されて逃亡していた工藤ふじせ企画社長を捕まえては追及し、また逃亡されては追跡するなどして、何回も団交を積み重ね、最後は自分が「学研の指揮・命令で組合を解散させるために学研の業務引き上げに応じた」事実を明らかにさせました。工藤社長が学研に指導されて会社を偽装倒産させ、自分はよその会社に一時、就職活動をしていたのを突き止め、そこに押し掛ける等も行いました。そして、遂に逃亡を断念させ、学研がこの争議を仕掛けた張本人であることを工藤社長や、その「下請け」の形を取っていた東京ふじせ企画の須田社長の口から明らかにさせてからは、本格的に学研経営への追及に入り、古岡秀人学研社長(創業者)らへ向けた行動を展開していきました。
 古岡秀人追及(社長時代〜会長時代)では、いろいろなことがありました。大田区南千束の自宅へ朝、団交申し入れに行くと、最初の頃は会社から20〜30名もの御用職制を動員して私たちを排除させながら、車に乗り込んで会社へ出かけていくということをくりかえしました。しかし、暴れる御用職制の異様な姿や私たちの抗議の声ですっかり近所に有名になり、彼は別の手を考えました。自宅裏手からこっそり塀を乗り越えて、裏通りに待たせた車に乗って逃げていくというやり方でした。これは息子の古岡滉(社長時代)も受け継ぎ、自宅の塀からはしごをかけて隣家伝いにこっそり抜け出すということをやりました。それも、やがて私たちに見つけられ(古岡滉のはしごはビラにも掲載され大恥をかいた)、私たちが訪問した日は出社を放棄することがしばらく続きました。しかし、いつまでもそんなわけにはいかなくなると、今度は、前夜から品川のホテル・パシフィックに外泊、そこから出社していくという手段に出てきました。私たちの自宅行動が定例社内会議が入っている月曜日の朝が多かったので、古岡秀人は毎週日曜日、夕食もそこそこに、後妻との間に生まれた長女の文子さん(後に一時学研取締役に)の運転する車でホテルまで送ってもらって緊張しつつ月曜日を迎えていたのでした。それも、やがて私たちに分かってしまい、次には文子さんの住む駒沢のマンションに泊まって出社するということになりました。当然、私たちは駒沢闘争を組み、マンション前で会社から差し向けられた社用車に乗り込もうとする古岡秀人会長に団交要求を行いました。慌てた彼は文子さんの部屋に逃げ戻り、その朝はずっと閉じこもったきりでした。一切の逃亡手段を断たれた格好の古岡秀人は、諦めて私たちの前に出てきて話し合う姿勢を取ればよかったのに、その後、裁判所にすがって仮処分・間接強制という制度を私たちの行動禁圧のために利用してきましたが、この件については別の機会に触れましょう。
 その後も私たちは、古岡親子に続いて社長に就任した沢田社長の目黒の自宅への闘争を組み、沢田社長も御用職制動員、そしてホテル外泊と同じ逃亡パターンをくり返しました。彼は95年、恵比寿ガーデンプレースのウエスティンホテルに外泊し、そこから玄関前の迎えの社用車に向かうところを私たちに追及されました。客室フロアから降りてきたところを私たちにロビーで取り囲まれた彼は、狼狽しただけではなく、「俺は泊まってなんかいないよ」と言ったのは笑えました。最近も怪文書に名前が出て来る沢田さん、負け惜しみが強いというか見栄っ張りなんですね。
 争議勃発当時の学研の最高責任者=古岡秀人氏も、工藤英一ふじせ企画社長も、共に今は故人となってしまいました。工藤さんは、最後は、私たちの前で「学研の言うなりになって馬鹿なことをしたよ」と後悔のため息をついていましたが、最晩年はワンマン社長も穏やかな心境のようでした。他方、古岡秀人元会長は、私たちと話し合うこともなく、争議を解決せずに「ふじせ労組の影」におびえたまま死んでいったのは残念なことでした。