委員長のきまぐれ「週報」 争議団的暮らしとは

第6回 55年目の8月15日によせて
( 2000年8月7日〜26日)

組合活動週報
7日(月) 南部労組全体会議
14日(月) 争団連事務局会議、南部交流会事務局会議
17日(木) 南部交流会機関紙「なんぶ」作成・例会
18日(金) 9・14反弾圧闘争第3回実行委員会
20日(日) 争議団連絡会議夏季合宿・奥秩父
21日(月) 争議団連絡会議夏季合宿
22日(火) 南部労組労働相談
23日(水) 組対法に反対する南部実行委員会
25日(金) 鳥井電器闘争弁護団会議、地域共闘交流会沖縄派遣団報告会
26日(土) ふじせ労組全国学研関連への郵送情宣、鳥井電器闘争を支える会例会、南部労組労働相談



 また、3週まとめての報告です。8月の日程は前回指摘したようにまばらです。ただし、争団連合宿用のレジュメ、9・14実行委員会基調レジュメ(いずれも争団連事務局で分担、それでも長い)作成などに追われました。
 そんなわけで今回は、8・17に南部地区労働者交流会の機関紙の一言コーナーに書いたものを殆ど、そのまま流用という手抜きをやらせていただきます。「一言の割には長い」、と言われそうですが、そのとおりですね。書き始めたら長くなってしまいました。「である」調の文章ですが、「です・ます」体に直すと余計長くなるので、このまま掲載します。また次回からは、書き下ろし(大袈裟な!)で週報を載せます。

 学研が後援している「北九州市自分史文学賞」の表彰式抗議闘争(今年2月)をきっかけに、受賞者の玉井史太郎氏から手紙をいただくようになった。作家・火野葦平氏の三男ということも話題になって新聞紙上に住所が掲載されたことから、闘争前に、会場前で抗議行動を行う旨の手紙を出すことができた。当日は、マイクを握って訴えている私たちに一礼、ビラを配っている九州の仲間に「頑張ってください」と声をかけて氏は会場に入って行かれた。その後、玉井氏からは自らが管理している火野葦平旧宅(市の文化財)で出している「河伯堂だより」を同封した手紙が届くようになり、そこには首相の「神の国」発言などの世の現状を憂えることばと、「労働者側の弱体化」の中で闘う私たちへの暖かい励ましの言葉が毎回綴られている。
 この夏、自分史文学賞受賞作である「河伯堂余滴」を送っていただいた。読んで見たいが買うのも業腹で、全学研の人を通じて入手しようとしていた矢先のことだった。父葦平との確執や、葦平の自殺が「病死」と発表され死後長く伏せられた事情などを含め、息子から見た玉井勝則(火野葦平)を描いた好著だ(誤植等、装丁のまずさは学研に抗議、やはりよそから発刊させねば・・・)。
 玉井氏とは別個に火野葦平につき考える。火野葦平は、「麦と兵隊」などにより自分の本意ではない「兵隊作家」の名を冠せられて戦時中、国民的人気を得た。しかし、復員後の彼を待っていたのは戦犯の汚名であり、文壇・ジャーナリズムからのボイコットによる生活苦だった。共産党の「アカハタ」は文化戦犯第一号に火野葦平を掲げ、先日物故した小田切秀雄氏ら「近代文学」同人は、「文学時標」誌上の「文学検察」(なんという言葉か)という欄で「文学の冒涜者たる戦争責任者を最後の一人に至るまで追及し、弾劾し、・・文学上の生命を葬らんとするものである」として、高村光太郎らと共に火野葦平をやり玉に挙げている。荒正人によれば「(火野は)対支侵略戦争を煽動的に肯定しているわけではなかった」が「単なる感傷のなかに美感を求めることによって、思惟を放棄し、『最も簡単にして単純なるものが最も高いものへ、直ちに通じている』という境地にまで進む」のが戦争責任であり、「かれは『聖戦』は描いたが『戦争』は描かなかった」とされた。
 この敗戦直後の風潮につき後年の葦平は「火野葦平選集」第4巻の解説の中で、「兵隊三部作」が軍隊の検閲の中で書かれなければならなかった事情等の弁解は一切することなく、「自分の暗愚さにアイソがつき、戦争中の言動を反省して、日々が地獄であった」としながら、同時に、「私は、戦場で、自分の任務を遂行しなかった兵隊を、人間として尊敬することはできない。それは、人間の責任に関する深い問題であって、帝国主義、軍国主義、軍閥などの想念とはまったくかけ離れた根底的な人格論である」と切り出しつつ、戦争肯定や兵隊礼賛とは異なったところで、戦争の中に投げ込まれた人間の問題が政治イデオロギー的批判では解決しえていないことを述べて、批判している。それは戦争を挟んで手のひらを返すように「転向」と「再転向」を繰り返し、あるいは「非転向の転向」を遂げたに過ぎない知識人や共産党幹部らに対する異和の感情の表明でもあったろう。減食をして計画的に栄養失調となって徴兵を逃れた小田切秀雄氏らの行為は、火野葦平の目にはまっとうな抵抗とは映らず、孤立無援の葦平に浴びせてくる彼らの批判はGHQという新たな権力を後ろ盾にしている点で戦前と同質のものと感じ、何よりも庶民として戦場に動員され殺し合いをして深く傷ついた兵隊たちがないがしろにされている、という思いだったのだろう。この解説は1959年1月、自殺する一年前に書かれている。
 私たちは先の戦争につき宿題を残したまま、冷戦から内戦へ、ベトナム、中東戦争、湾岸戦争やユーゴの戦争等を見聞きし、21世紀を迎えようとしている。支援のT氏から薦められて、多木浩二「戦争論」を読んだ。クラウセヴィッツの「政治の継続」としての戦争論が無効となった20世紀の戦争について、暴力について、科学技術の異様な発達や権力の様態の変化等から歴史哲学的考察がなされている。「戦争は人間の日常性を破壊する。日常性とはつまらないもののように見えて、じつは人間の世界を立ち上げているものなのだ。これを剥ぎとられたとき、人間性は喪失し、世界は崩壊する。20世紀の暴力がしでかしたのはそのことだった。」
 玉井氏は最近の手紙で、20世紀の名著として、「麦と兵隊」が復刊されることとなったことを、現在の政治状況を背景にした意図があるとすれば手放しで喜べぬと言っている。「土と兵隊」戦後版を含め火野葦平が戦中に描けなかったことをはじめ戦後の「泥濘」の中で苦闘し追求したものは何か、まだ究められていない。近々、池田浩士が「火野葦平論」を上梓する旨、「河伯堂だより」に書かれていた。学園闘争の時代、京都大学で闘う教官として知られた氏は、最近、日本の文学史の捉え直しをテーマにしていると風のたよりで聞いているが、どのような火野葦平論が書かれるのか、読んでみたい。