委員長のきまぐれ「週報」 争議団的暮らしとは

 このコーナーは「ほぼ週刊」を目標に、相当きまぐれに作成していく予定ですのでお許しください。普段はなかなか書きたがらない他の組合員や支援共のメンバーからの突っ込みも入るかも知れませんのでよろしくお願いします。
 皆さんは争議というものをどう見ているでしょうか?「争議団」という言葉自体を初めて聞くという人もあると思います。労働組合自体を古めかしい存在と感じている人も少なくないと思いますので、争議ということになると、激しい労使紛争で大変だなとか、できれば自分には無縁であってほしい、自分だったら関わらず避けて通る、等の受けとめ方をしている人も多いと思います。当たり前のことですが、争議はもとより労働組合運動を志して就職したわけでもなかったので、争議に入ったとき、私も仲間たちも初めてのことばかり経験しました。
 しかし、体験するケースが少ないこの争議という世界は、意外に奥が深く、そこでしか得られないようなことも沢山あります。争議を闘っている組合の日常に触れながら、これまで経験したこと、私たちの現場からどんなことが見えてきているかを伝えていければと思います。

第1回 「争議団は、一粒で20倍おいしい」(!)
( 2000年4月24日〜29日)

組合活動週報
4月24日(月) 洋書センター闘争弾圧刑事公判、東工大弾圧拘留理由開示公判、出版関連労組交流会議4月例会
25日(火) 教育社高森社長自宅
26日(水) 学研第2ビル社前情宣、ふじせ闘争支援共闘会議
27日(木) ジャパマーハイツ東映本社闘争、品川臨職共闘庁舎前闘争、丸の内運輸社前闘争、明大生協労組駿河台校舎前闘争
28日(金) 赤羽局共に闘う会局舎前闘争−同郵政省前闘争−4・28連絡会大崎局闘争−同・不当処分21周年集会
29日(土) 加部建材闘争弾圧統一救対


 今週は争議現場の数としては普通、どちらかというと私たちの労組の都合で共闘活動が少し少なかった日もありました。「えー、これで」と思う人もいるかもしれません。平均すると昼は1日2〜3現場、夜は会議または集会が週に3〜4回、と結構忙しい毎日です。今週目立っているのは、労働争議への刑事弾圧関係の裁判、行動が多かったことで、この頻度は異例です。このことについてはその背景と共に別の機会に報告します。
 これを見て、自分たちの争議のことが少ないじゃないか、と思う方も多いでしょう。今回の話題はそこに関わります。今週は朝ビラ1回と共闘会議を1回だけ、確かに共闘関係の日程の方がはるかに多いです。(ただし、ここには記載していない闘争ビラ作成、支援の仲間への連絡・行動要請、学研の経営状況調査、アルバイト等、「ふじせ闘争」の様々な活動があります。)私たちは、全都の20余の争議を中心とした連帯・共闘に活動の多くを割きます。そして、その背景には日本の労働争議(労働運動)の歴史的変遷と、私たちの創り出した独自の活動スタイルということがあります。
 戦後すぐの第1次・2次読売争議、1948年の東宝争議、49年の東芝争議、54年の近江絹糸争議、60年の三井・三池争議等、昔の争議はいずれもその時期には一点集中の大争議でした。武装警官、アメリカ軍の戦車、装甲車、それに戦闘機まで出動し、「来なかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議、「総資本と総労働の対決」と言われた三池争議など、いずれも戦後社会の転換の節目に位置した闘いでした。しかし、いかに大争議と言っても、労使共に企業枠を越えて支援を集中してぶつかる闘いは長くても一年から二年で決着しています。30日を越えるストライキは大争議と言われてきました。
 ところで私たちのふじせ闘争は22年経って未だ決着がついていません。教育社闘争、全金本山闘争のような30年近い争議を初め、20年前後を経過する争議がいくつも闘われているのが現在の争議の特徴です。民間企業の争議だけでなく、全逓4・28処分撤回闘争(21年)、国鉄闘争(14年)等も長期化しています。1970年〜76年にかけて闘われ、解雇撤回ー職場奪還をかち取って勝利し、私たちの争議団共闘の源流となった光文社闘争以降、80年代までに起きた争議がこうした展開となっています(光文社はまだ出版産別の中で一点集中的な面を持っていたが、今は本当に多数の争議が同時的に闘われている。むろん、一年程で解決・勝利した争議もあります)。
 こうした歴史的変化の背景の第一には労働運動の後退ということが上げられます。現在、リストラの嵐が吹き荒れている中で、「連合」等はなんら労働者の生活を守ることができなくなっています。私たちは、70年代より、こうした既成労働運動が労働者の怒りや闘いを切り捨ててきた状況に抗して、自分たちの力で闘いを創り上げてきました。上部団体等に依存することなく、逆に上部団体や既成労働運動の切り捨て・抑圧をはね返して、自力で解雇撤回闘争等を闘い、またそうした争議団同士の横のつながりをつくってきました。
 しかし、これは単に労働運動の否定的状況に関わりなく、企業や業種の枠を越えて争議というものが自然に持ちうる特質だと思います。その積極面を私たちは独自の共闘のスタイルに発展させていきました。自分の争議の勝利にこだわり、責任を持つと共に、他の争議の内容にも自分のことのように関わっていく関係ができていったのです。そして、90年代の初頭から、悪条件の中で長期化を余儀なくされてきた争議が、微生研闘争(14年)を皮切りに次々と連続勝利(解雇撤回=職場復帰)をかち取っていきました。この中には24年を経過した中央公論社闘争の勝利も含まれています。自分のことのように喜べる勝利を沢山経験し、祝賀パーティを何度も味わってきました。
 こう書くと私たちのことを労働運動の活動家のように受け取る人もあるかも知れませんが、それは違います。自らが解雇される等の中で争議当事者であり、生き、闘う生活の現場から人々との結びつきが広がり深まっている、ということです。結果的には、私たちは豊かな恵まれた関係を得ています。むろん、争議は楽なことばかりではありませんが、解放されている要素は得難いものであり、それを一つの争議から発して、いくつもの闘いの経験として蓄積してきています。私も毎日、「ふじせ闘争」を闘うと同時に、それとつながった沢山の闘いに参加しているというわけです。
 かつての一点集中的な闘いから、いくつもの闘いを同時的に前へ進めていくことを互いに支え合いながら展開しているのが現在の争議の特徴です。しかし、これを手放しで評価していられるのか、というとそう簡単ではありません。二つの面から課題が生じていると言えます。一つは、こうした私たちの緊密な共闘関係に対して、これを解体しようとする攻撃が襲っています。もう一つは、一時期の凝縮した争議経験ではなく、これだけ長く引き延ばされた争議は、まるで一生を争議に費やすようなものではないのか?という問いです。後者については「奪われた青春を返せ」なーんて言葉も使われたりするので、争議状態というものを日常的にどう相対化しているのかという視点から答えなければなりません。
 これらについては、また次の機会に語っていきたいと思います。今回は、はなから堅い話題になりましたが、もっと具体的で、楽しい話題も提供していくつもりです。