PΛLS 2014年4月1日号
   今月号の内容
   1、シリーズ=私たちは何故、闘い続けているのか(4)      
        学研・ふじせ争議とは?何故起きたのか?
(損害賠償訴訟本訴準備書面から) 
    2、2・24損賠本訴第3回口頭弁論開かれる
    3、移送請求却下に即時抗告を行う!
    4、学研本社前行動を打ち抜く!

私たちは何故、闘い続けているのか(4)
学研・ふじせ争議とは? 何故起きたのか?

 学研で働く皆さん!学研・・ふじせ争議の発端から現在に至る真実と、私たちは何故闘い続けているのか、をお知らせするシリーズを掲載しています。前回、1987年の労働委員会命令が出されるまでを掲載しましたが、それまでの経過を詳しく知りたいという声が寄せられましたので、損賠裁判に出した準備書面から、この争議が何故起きたのかにつき述べている部分を転載してお伝えします。
(1)争議の発端
ア 原告学研HDの前身である株式会社学習研究社について
  原告学研HDの前身である株式会社学習研究社(以下「学研」という。)は、基幹雑誌の学年別学習誌「○年の科学」「○年の学習」で急成長した会社だが、それは直販システムという独特な販売方法によるところが大きかった。創業者の古岡秀人社長が戦後発足させた(1946年4月設立)学研は弱小の後発出版社であるが故に取次から相手にされなかった。そこで、学研は、版元→取次→書店という通常のルートをとらず、戦時中、大政翼賛会などに関係して敗戦とともに戦犯追放で職を失っていた元校長などを使って販売ルートを創り、そのコネを最大限に用い、予約販売(返品なし)、広告不要の学校直販というスタイルで驚異的に売上げを伸ばしていった。1960年代までは学校の教室や校庭などで「科学」や「学習」が売られていた。学校に深く食い込んだ営業スタイルは、「私設文部省」とまで言われ、学研も自認する学校現場との異常な密着の陰では学研と教師間のリベート問題もささやかれた。
  しかし、1971年に日本消費者連盟から特定の企業が特権的に学校現場に参入していることを告発され、以降、学研は学校現場から撤退して家庭訪問販売事業(家庭直販)に切り替えていった。古岡秀人社長は、戦時中、軍需工場にいて軍との関係が深まり、戦後の紙不足の時代に大量の紙を軍と結託して入手した、というエピソードもある人物だが、戦後立ち上げた出版社において、独自の販売ルートを開拓していき、一代で大会社を築きあげたことで社内では絶対的な権力を持っていた。学研は、規模が大きくなっても古岡秀人社長の個人商店との発想が抜けず、ワンマン支配が続いた。
 古岡秀人社長は、立志伝中の人物としての神話を作り上げるために、周囲に過去を粉飾して語っていた。教職を志して小倉師範を卒業した後に教育出版社を創設するに至る経歴につき、読売新聞・福岡版に掲載したものを「学研ライフ」(社内報)に再録されているが、それによると古岡秀人社長が数えで5歳の大正元年に福岡県三好炭鉱の坑内監督をしていた父が坑内事故で即死したとされる。曰く「5歳の少年は・・母親の背中にせいいっぱいしがみついていた。母のぬくもり・・・」「(母は)『秀ちゃん先生になれ』と口グセに言っていた・・」とのことである。しかし、古岡秀人社長の父、太郎吉は大正9年、炭鉱の社宅内で死亡していることが除籍謄本の調査で分かっており、数えで13歳の時である。ここに、「古岡神話」の一端がある
また、社内会議では、古岡秀人社長が行った質問が「ただいまの社長のご下問につきましては」と語られるような状況が、学研・ふじせ争議の発生時まで続いていた。信奉する社員の中でも虚飾がはがれ、古岡神話が崩壊していくのは後の1990年代半ばのことになる。
 イ 全学研労組の結成
  上述したような、いわば「カリスマ」的存在であった古岡社長のワンマン体制のもと、学研では、古岡滉、古岡勝など古岡一族縁戚を会社幹部に据えての一族専制が進められ、会社がつくった御用組織=従業員組合(以下「従組」という。)のみが存在を認められていた。学研は、会社サイドの組織である「生産懇談会」と「苦情相談委員会」と従組を並列に扱い、「労使の対立関係も搾取もない」として、従組を労働組合として扱わなかった。そして、1960年代後半から、従組の中での意見が人事部に筒抜けになり、自由にものが言えない、従組幹部が会社と一体となって組合員の不満を抑え込む、というようなことが続き、心ある労働者は、これはおかしいと考えるようになった。彼らは、労働者の不満の声を正面から取り上げるべきだと考え、やがて、従組改革運動が起こる。これに対しても、学研経営陣は、この改革運動を潰すために、従組執行部を批判し、組合費の不払いを提唱したグループに対してけん責処分を行うなどした。
  しかし、こうした運動が母体となって労働組合結成の機運が高まり、カメラマンの不当配転事件を契機に、1973年9月30日、従組から独立した「全学研労働組合」が結成された。2千名を越える社員の中で約80名で旗揚げし、次々と新しい労働者が加盟し、すぐに組合員数は200名程になった。すると、これに危機感をもった古岡秀人の意を受けた学研人事部が先頭になって暴力的な組合潰しが始まった。学研人事部は「学研生活を守る会」(以下「守る会」という。)という管理職を中核とした組織を作り、春闘などで腕章を着用しただけで集団で襲いかかり、はぎ取る、職場で少数の労組員を取り囲んでこづく、つるし上げを行う等の暴力行為を行った。掲げている教育出版社の看板からは信じがたい程の、このような暴力的な組合潰しがエスカレートし、労組員に対する遠隔地などへの不当配転、14名の解雇、賃金差別、仕事干し等々が行われていった。この本社での労働争議は1992年まで19年間にわたり続いていった。
(2)全学研労組対策として導入されたふじせ企画・東京ふじせ企画
ア ふじせ企画の実態
  ふじせ企画は、この全学研労組結成直後の1973年10月以降、労組対策用の会社としての位置づけの下に、学研の下請けプロダクションとして育成されていく。
  ふじせ企画の前身は、同じく出版大手の株式会社小学館の下請編集プロダクションであり、「少年サンデー」などの漫画雑誌を制作したりしていたが、1972年には事務所を閉鎖していた。
  ふじせ企画の工藤英一社長(以下「工藤」という。)は、1973年1月に学研の城北支社長の仲介で学研編集総務部の角宮二郎副部長(1976年12月から部長、以下「角宮」という。)に会い、持ち込み企画の「美しい日本の旅」(全16巻)が採用されて、同年9月にその業務のために千代田区西神田に事務所を開設し(西神田事務所)、その制作業務を開始することでふじせ企画としての業務を再開した。
  他方、学研では同年5月、学習科学編集局次長兼科学編集部長の黒川巌(1978年5月から局長、以下「黒川」という。)が、科学編集長会において、従組批判運動に参加していた平野勝男らの従組職場委員の地位を奪うリコールを行い、さらに従組批判運動参加者および全学研労組結成後は同労組員を「科学」「学習」の制作ラインから排除する指揮をとった。
  同年9月、全学研労組結成の情報を得た角宮は、工藤がいる西神田事務所を訪れ、「組合ができて『科学』の仕事が遅れると困るから、手伝ってくれないか」「金を出す、仕事の指導もするから『科学』をやってほしい」と工藤に働きかけた。さらに、学研は、ふじせ企画に金430万円を貸し付けて、五反田に学研の編集業務を遂行するためだけの事務所(五反田事務所)を開設させた。これは前例のないことであった。基幹雑誌「科学」「学習」の編集部の過半数を全学研労組員が占めていたことから、ストなどを打たれても影響が出ないようにする、との位置づけであった。「科学」の業務は同年10月から、「学習」は同年11月からふじせ企画に発注された。同年12月、全学研労組は、年末一時金闘争として、学研始まって以来のストライキを6波に渡って行った。これを受けて同月ふじせ企画への発注が本格的に行われた。同年12月から1974年1月にかけて、学研社内の科学編集部、学習編集部での異動では各学年誌の担当者が各1名ずつ削減されているが、本紙担当から他部門へ移動の対象となったのは、全て全学研労組員であった。
  全学研労組員の編集業務を取り上げて仕事干しを行い、その業務をふじせ企画に回して、しかも低賃金で使うということを学研経営は行っていった。ふじせ企画は、学研のただの下請編集プロダクションの一つではなく、学研経営側がスト破りの機能を持たせた労組対策のための会社という独特の位置を持った存在であった。
  全学研労組対策としてふじせ企画が導入されたこと、五反田事務所が開設されたことは、後には学研職制、全学研労組員、東京ふじせ従業員が等しく認識している事実となっていた。古岡秀人社長は、社内会議において「今度新しく五反田に事務所を作った」と発言し、まさに学研がふじせ企画を傀儡として、事務所の新設を行ったことを自認した。また古岡滉副社長は、五反田事務所設立の資金援助について、多額の金額に躊躇した角宮に対し、「金額の問題では無い。ふじせが引き受けてくれるか、くれないかが問題だ」と、叱咤した。
  ふじせ企画の工藤も、労組対策用に学研が必要としている事情をよく理解し、これに積極的加担する意図をもって、学研サイドで組合潰しを現場で担い、ふじせ企画との窓口になっている角宮と緊密な関係を持ち、酒食の接待を行うなどしながら、受託業務を拡大していった。
同じ編集プロダクションでありながら、「グループある」「Do & Do」「少年社」など、学研の科学・学習編集部での編集経験者が設立した会社と異なり、ふじせ企画は学習誌の編集ノウハウを全く持っていなかった。それにもかかわらず、ふじせ企画には「科学」「学習」両誌にまたがり、しかも全学年にわたって業務委託がされるという、他の編集プロには見られない破格の扱いがされた。
  そして、学研から「リーダー」と言われる元各学年誌の編集長の上の職位にあった管理者が頻繁に訪れ、学習誌のノウハウを持たないふじせ企画の担当者に指導と管理を行った。
  その期間は約半年間以上にわたったが、このふじせ企画導入の初期には、学研はふじせ企画の存在を学研社内の現場サイドには知らせないようにしていた。全学研労組に隠す目的からだが、学研編集者に渡す進行表にもふじせ企画の名称を隠し、聞かれても編集長らは「外部に出すことになった」と曖昧な説明しかしなかった。そして全学研労組員とふじせ企画担当者を直接接触させないようにしていた。
イ 東京ふじせ企画の設立とその実態
 (ア)工藤は、学研からの委託編集業務遂行が軌道に乗った1975年10月、五反田事務所を東京ふじせ企画として分離し、日常業務を統括させていた管理職須田博(以下「須田」という。)を社長に据えた。そして、ふじせ企画は学研の業務を請け負い、それを東京ふじせ企画に下請に回すという構造となった。工藤は、学研と東京ふじせ企画を結ぶトンネル会社となったふじせ企画の社長として、東京ふじせ企画の上に君臨し続けた。工藤は、東京ふじせを分離した後、須田を伴い、学研の関係部署に紹介して回った。
(イ)「科学」では、1975年から76年には200ページ台、1977年には300ページ台と、ふじせ企画への発注ページ数が年々増加し、その割合は、1977年段階では全体の約5割近くにも達していた。その一方で、1975年4月には、学研は全学研労組員の大量解雇を行った。
   東京ふじせ企画は、学研の要求に応える形で従業員の採用を行い、学研の承認をうけながら従業員を学研の業務に配置し、従業員は学研の管理職の指示、監督の下で編集業務を行っていった。学研からふじせ企画に支払われる業務委託料は、東京ふじせ企画の従業員の人数を基に算定され、その20%をふじせ企画の工藤が紹介料として取り、残りの80%が東京ふじせ企画に回された。労働者派遣法が制定されるのは10年余り後のことになるが、請負の形を取っているものの、完成させた受託業務への出来高払いではなく、工藤が一人あたりの単価を基に算出した委託代金を受け取り、学研に人を送り込む手配師的な労働者供給は、今日で言えば「偽装請負」そのものであった。 
   ふじせ企画の労働者は、労組対策用の会社などとは知らずに入社するが、すぐにその事情を須田らから知らされた。東京ふじせ企画に勤務していた労働者は、1977年には35名に及んでいたが、そのうちの半数を超える者が大田区上池台の学研本社と仲池上の学研第2ビルの各部署に派遣されて、学研社員と同様に学研の管理職の指揮・監督の下で働いていた。彼らは五反田の東京ふじせ企画事務所には月一度の給料日に立ち寄るだけであり、業務は完全に学研内の部署で行っていた。また、「科学」「学習」を担当する東京ふじせ企画の労働者も、連日、学研本社と五反田事務所を往復したり、学研の管理職からの指示を受けて取材、原稿依頼、編集・校正作業等の業務を遂行した。以下、それぞれの業務実態に触れておく。
  a 「科学」・「学習」の場合
   個々の東京ふじせ企画の担当者は、担当する学年誌によって、学研の学年別編集体制に直結した専属スタッフとして、学研に直接管理されるシステムになっていた。東京ふじせ企画では、担当を一覧にした分担表を作成し、毎月、学研に提出させられていた。
また、東京ふじせ企画の労働者の一部は、普通学研編集者のみによって行われる原案会議への出席や原案会議から校了までの全工程を研修するという出向の機会も与えられた。このように、東京ふじせ企画の労働者は、他のプロダクションの担当者とは異なり、学研編集者に準ずるものとして位置づけられていた。
東京ふじせ企画への業務の発注の場合、東京ふじせ企画の担当者が学研の社内で行われる打ち合わせに出席し、その場で、学研の編集長が東京ふじせ企画の担当者に直接発注していた。東京ふじせ企画の担当者が担当するページは、東京ふじせ企画の裁量で割り振られるのではなく、進行表交付の際の打ち合わせの時に学研編集長が東京ふじせ企画の担当者個々に指示していた。ページの担当が決まると、学研編集者との打ち合わせがもたれ、さらに納品に至るまでに学研編集者と何回にもわたって打ち合わせが行われ、学研編集者から業務の細部にわたる指示、及び点検が行われた。東京ふじせ企画の「科学」「学習」担当者は、毎月、誌面に3ないし5本の記事を担当していたため連日にわたって、ときには日に数回、学研へ行って指示を受けることもあった。他のプロダクションの場合は、作業の報告を逐一求められることもなく、委託業務の遂行はプロダクションに任せられていた。依頼内容に合致するものを納期までに納品すればよいのであって、仕事の出来が悪ければ、委託が打ち切られるのである。東京ふじせ企画は、仕事の出来が悪くても委託が打ち切られないという労組対策という特殊な理由があるが故に、学研編集者が東京ふじせ企画の担当者に直接的に指示点検を行っていかなければならなかったのである。
   東京ふじせ企画の担当者が使用していた名刺には、学研の会社名、担当部署の電話番号、責任者名が明示されていた。他のプロダクションでは自らの責任において業務を遂行しているから、学研の名前をすり込んだりすることもなかった。
   東京ふじせ企画の五反田事務所には職制の肩書きを持つ者として編集部次長、科学副編集長、学習副編集長がいたものの、東京ふじせ企画の各担当者は学研編集者から直接指示命令を受けて業務を遂行しており、また東京ふじせ企画の職制もそれぞれ担当編集業務を行っていたため、東京ふじせ企画の職制が自社の従業員の管理をするなどと言うことは、物理的に不可能であった。実際の業務遂行の管理は学研が行い、東京ふじせ企画に独自に管理機能は存在していなかった。
  b 学研第2ビルの場合
   学研第2ビルでは、学研教科図書編集部で、新企画である中学生向けの月刊学習参考書「マイコーチ」の編集制作業務が行われた。ふじせ企画への業務委託契約書では「企画、原稿依頼、取材、原稿入手、原稿整理、印刷所への原稿渡し、初校、再校、3校、校了などの業務」とされ編集行程のすべてを網羅されているが、「英語」や「数学」など教科によって担当する業務内容が異なり、予め特定されておらず、学研編集長から個々の東京ふじせ企画担当者に指示されて仕事の内容が明らかになり、遂行していくというのが実態であった。「マイコーチ」の編集制作にあたっては、学研編集長が責任者となって学研編集者と東京ふじせ企画担当者が教科別に一体として班(チーム)を組んでいた。マイコーチ編集業務には、1977年9月時点で東京ふじせ企画から12名が派遣されていた。2年目の「昭和53年度版」には信光社、泉編集社など他の編集プロダクションも部分的に関与したが、担当した業務の範囲は限られ、班組織とは区別されていた。また彼らは自己のプロダクション事務所で業務を行い、学研教科図書編集部内で作業することはなかった。
   東京ふじせ担当者が学研教科図書編集部内で業務を行うことになったのは、学研からの「マイコーチ」受託の依頼があった段階から、学研から求められたことによる。東京ふじせ企画の担当者は、同編集部内に専用デスクを与えられた。東京ふじせ企画には中学校指導要領に準拠した学習参考書の編集経験も編集ノウハウもなかったため、上述した「科学」「学習」と同様に、学研が担当者を直接指導して編集者を育成する必要があり、東京ふじせ企画の担当者が学研編集者のそばにいないと業務遂行に支障があった。編集企画会議や執筆者会議は内部機密的性格が強く、出席するのは原則として学研社員のみであるが、東京ふじせ企画担当者も、学研編集者とともに執筆者会議に出席しており、学研編集長は、東京ふじせ企画の担当者を他プロダクションとは区別して、教科図書編集部の一員として位置づけていた。業務遂行は、学研編集長が東京ふじせ企画側の責任者に一括して発注するのではなく、学研編集長またはチーフの学研編集者が東京ふじせ企画の担当者個々人に個々の仕事を直接指示していた。残業や休日出勤も学研編集長の指示に従って行い、深夜残業で旅館を使う場合も学研が宿泊費用を負担した。また、東京ふじせ企画の担当者は、写植業者や版下業者の手配、監修者・執筆者との連絡や製本の郵送作業など、通常学研編集者が行っていた業務についても、学研編集長の指示の下に行っていた。 
   東京ふじせ企画の担当者は、執筆者や他のプロダクション、版下業者との打ち合わせ等には、学研の会社名、担当部署、責任者電話番号等を明記した名刺を使用し、ふじせ企画・東京ふじせ企画でなく学研教科図書編集部の名称を使って行っていた。
   東京ふじせ企画内の職制の名目は肩書きだけであったことは第2ビルでも同様であった。東京ふじせ企画教科図書編集部副編集長としての肩書をもつ沢村啓之(以下「沢村」という。)がいたが、沢村は、英語班に所属し、マイコーチ「英語」のB版を担当して、学研の岡田編集長の指揮の下に他の担当者と同様の業務に従事していた。他教科のメンバーも学研編集長から指示を受けて業務を行っており、各教科・各版の業務状況を知らない沢村が「数学」や「国語」の進行を管理したり、東京ふじせ企画の担当者に対して業務上の指示を下したりすることは不可能であった。
   学研第2ビルへの派遣の実態においても、以上のように、他の編集プロダクションへの委託形態、特定の編集業務をプロダクションの裁量に任せていた本来の委託と異なり、東京ふじせ企画の担当者は学研編集者の傍らで学研編集者と同様もしくは準ずる存在としての役割を求められていた。
  c 学研本社の場合
   学研本社では、1977年には「どっかんV」、「学研まんが」、「教育ジャーナル」、語学ソフトウエア開発部の「LL中1英語コース」等の編集部署に東京ふじせ企画の労働者が派遣されて働いていた。それ以前には「ベルママン」編集部(母親向け家庭教育誌)にも派遣されていた。各部署では東京ふじせ企画の担当者は専用のデスクを与えられ、学研のロゴマーク、学研の名称、編集部署と学研の住所・電話番号の入った名刺を支給されたり、「ベルママン」では原案会議に出席を求められたり、語学ソフトウエア開発部では3人の東京ふじせ企画の担当者が学研編集者と1対1の3組のチームを作って学研編集者の指示のもとで働き、毎週部長に学研社員と同様に業務報告書を提出していたり、「教育ジャーナル」では、学研編集長と東京ふじせ企画の担当者2人だけで編集長の指示で業務全体に従事するなどした。これらの業務の内容につき、ふじせ企画・東京ふじせ企画の経営者は詳細を掌握しておらず、むろんふじせ企画・東京ふじせ企画からの業務指示や連絡は一切なく、学研の直接の管理・指揮による運営がされていた。学研本社に出向していた東京ふじせ企画担当者の中に、副編集長の肩書きを持つ染谷良男(以下「染谷」という。)がいたが、染谷は「学研まんが」の編集部署に所属して同業務を担当していた。他の東京ふじせ企画の担当者が所属する部署とも異なり、座席配置も部屋も異なっており、染谷が東京ふじせ企画の担当者を日常的に管理することは物理的に不可能であり、実際にも管理していなかった。
 (ウ) 次に、全体としての学研の労務支配を概括する。学研が委託業務を新規に発注するにあたって、業務を担当させる東京ふじせ企画の人数は学研から指示されていた。通常は、編集プロダクションの側の裁量で受けた業務への人数配置を決めるのであるが、そうはなっていなかった。また、東京ふじせ企画が社員を採用するにあたっては、決定する前に、学研の担当部長またはそれに代わる責任者に採用候補者の履歴書や経歴メモを提出し、学研の承諾を得てから決定していた。実際は、学研の職員と同様の仕事をさせているのだから、採用時にもその能力を確認する必要があるという理屈であった。
   また、学研業務の担当者の人員配置は、ふじせ企画・東京ふじせ企画の判断で変更することはできなかった。担当者が業務上ミスをしたり、学研から担当として不適と判断されると、学研の指示で担当を外された。業務上大きなミスをしたり、学研の期待に応えない仕事ぶりだった場合、学研から業務の発注が切られるという形でなく、担当者個人が不必要なスタッフと判断され、学研の指示により工藤を通じて解雇を言い渡されていた。
   東京ふじせ企画の労働者の勤務時間や出勤日も、学研側に合わせられ、特に学研に派遣された東京ふじせ企画の担当者は、学研の出退勤に従うように指示された。残業、休日出勤についても学研編集長らの指示で行われた。休暇の取得も学研編集長に申請し承諾を得なければならなかった。
   東京ふじせ企画の労働者に対する学研の労務上の支配は、学研がふじせ企画を労組対策として導入し、全学研労組員に代置できる労働力として積極的に育成を図ったことによるものである。ふじせ企画・東京ふじせ企画に求められていた機能は、学研の指示、意向を忠実に実現すること、学研に良質な労働力を供給すること以外ではなく、独立した労務管理機能は求められもせず、現実に存在していなかった。
   こうした位置づけの下で、東京ふじせ企画の労働者は、「学習」・「科学」担当者を中心として、月に120〜150時間もの無給での長時間残業、低賃金の劣悪な労働条件で働かねばならなかった。学研からの業務委託代金で成り立っていた東京ふじせ企画では、工藤は、「残業代など出せない」として、時間外手当の代わりに代休を取らせる制度を設けていたが、実際には代休を消化することもできず、過重労働が心身を蝕んで行った。また、学研の管理者から直接叱責を受けるだけでなく、学研側から解雇、配置換えや担当から外すように指示を受けた工藤から、対象となった労働者が激しく叱責されたり、退職強要、解雇をされるなど、労働者の尊厳が奪われる事態も続いた。
(3)東京ふじせ企画労働組合と学研の業務総引き上げ
  東京ふじせ企画の労働者の中では、低賃金と無給長時間残業等の劣悪な労働条件に対してこれ以上、黙って働き続けることはできない、との思いが募っていた。そのようななか、1977年11月、学研の「語学ソフトウエア開発部」に出向していた東京ふじせ企画従業員が同部の業務終了に伴い、1名退社、1名所属未定となり、もう1名の木下秀樹が1ヵ月後の退社を前提とした「自宅待機」という事実上の解雇を言い渡されたことを契機に、労働条件の改善を掲げ、同年12月4日に被告組合が結成された。
組合結成の翌日である同月5日に被告組合結成通告を須田に対して行うと、須田は、すぐに工藤に電話で連絡した。駆けつけた工藤は、五反田の事務所に入るなり興奮した口調で労組員らに対して、「お前ら、組合なんか作ってどうなるか分かっているのか、この会社は学研の労組対策でできた会社だぞ」などと怒鳴り、被告組合を作れば会社が潰れることになる旨を述べた。
  工藤は、須田と協議し、須田に被告組合を解散させろと指示した後、学研本社へ報告に赴いた。須田は、組合三役に対して、会社は学研の組合対策の会社である旨を改めて伝えた。一方、組合員の自宅待機処分については撤回すると伝えた。
  工藤が訪れた学研では、最初に4階の自席で応対した学研の角宮が「ここではまずいから」と6階の会議室に席を移し、黒川、村田実学習編集部長(以下「村田」という。)の四者で協議した。黒川は、工藤からの報告を受け、「全学研労組対策の会社に組合が結成される事態がおきることは学研としては困る」旨話し、被告組合を解散させるよう工藤に指示した。また、角宮も、被告組合がどのような組合で、構成員はどれくらいかを問い質すなどした。工藤は、帰ってから、被告組合結成に対する学研の意向を須田に伝えた。
同月6日、須田は、工藤から被告組合ができたことにつき、難詰された。その後、須田は、学研第二ビルに赴き、教科図書編集部の「中学マイコーチ」および「副読本」担当である山本課長、福田課長に組合結成の事実を報告すると共に、編集業務は正常に行う旨話した。
  さらに同日午後、工藤と須田は学研本社ビルで黒川、角宮、村田と会った。この席で、黒川は、ふじせ企画と東京ふじせ企画は別法人であり、被告組合は東京ふじせ企画の労働者によって結成された組合である点を確認したうえで、被告組合の問題については子会社(東京ふじせ企画)の須田の方で処理に当たるよう指示し、仮に子会社(東京ふじせ企画)が処理を誤っても親会社(ふじせ企画)が残れば学研は困らない旨話した。また、角宮は須田に「組合が存在すると学研は困るから早急に組合員の名簿を出すように」と言った。
他方、学研本社では既に学研科学の編集長が被告組合の組合結成宣言書を回し読みし、全学研労組との関係をさぐろうとする動きも生じていた。
  同月7日も、須田は、工藤と共に、学研で黒川、角宮、村田と会った。黒川は、前日同様に被告組合を東京ふじせ企画内で処理しろ、と命じ、工藤には「表に出ないで隠れていなさい」と伝え、また、これまでの恩義もあるので2〜3ヵ月あるいはそれ以上長引いても面倒を見るつもりである旨伝えた。
  須田は、一度五反田事務所に戻り、被告組合に対して「組合結成通知書に対する申入書」を渡し、被告組合の結成・存在を認め、団交に応じる日時を回答するとともに、取引先等への刺激を避けるため労働組合という名称を変更することを求めた。
  須田は、午後、再び角宮に呼ばれて学研に赴き、被告組合の現状を報告し、絶えず学研と連絡を取るように言われた。
  同日、角宮は、東京ふじせ企画従業員小松彰(非組合員)に対し、「学研は下請けに組合は認めない。基本的に組合のできたふじせは潰すつもりである。東京ふじせ労組は全学研労組と連携を図る恐れがある。」等の学研の考え方を伝えている。
 同月8日、工藤は、学研本社に赴き、黒川、角宮に被告組合解散工作が思うようにはかどらない旨を伝えた。すると、黒川は、「東京ふじせ企画から学研の編集業務を引き上げてショック療法をやろう」と申し向けた。黒川は、業務引き上げは、表向きふじせ企画が学研に業務を返上したという形をとって行う旨を述べ、工藤も、黒川の命令を拒否すると、東京ふじせ企画における被告組合の問題が収まったときに学研からの業務発注の再開が望めなくなると考え、当面、やむなくこれを受け容れることとし、その旨返答した。
  工藤は、夕方、須田を西神田のふじせ企画事務所に呼び出し、「お前がもたもたやっているからこういう事態になったのだ」と叱責した上で学研の編集業務が引き上げとなること、実際は学研が業務を引き上げるが、ふじせ企画の側から学研に業務を返上する形を取ると伝えた。須田が「東京ふじせの他の社員も困るし、学研も困るはずだ」と難色を示すと、工藤は、「学研は自分で引き上げるんだから問題ない」と答え、須田は押し切られた。
さらに続けて工藤は、須田に対して学研およびふじせ企画の方針として、非組合員から東京ふじせ企画に対する辞表を出させ、今後組合活動をしない旨の誓約書を書かせ、また被告組合を脱退した者についても同様の処置を取り、ふじせ企画に吸収することとするので、これに協力するよう申し向けた。
  上記のとおり、工藤は、西神田のふじせ企画事務所に須藤社長を呼び出したが、その際には、東京ふじせ企画の星次長に伝言を託した。同日夕方、五反田事務所において、星次長作成による「極秘、本日3時をもってふじせ企画より学研の仕事を総引き上げとのこと」と記載されたメモが須田の机脇のゴミ箱から発見された。
  その後同日夜、学研の教科図書編集部長の戸谷太一(以下「戸谷」という。)から須田のもとへ電話があり、黒川から戸谷へ学研第2ビルも業務を引き上げる指示があったが、学研本社ビルと切り離して学研第2ビル関係の業務だけは継続できないかとの打診があった。そして同日深夜、工藤が須田に電話をして、業務引き上げの説明をしたところ、これに対して須田は業務引き上げは困る旨話したが、工藤に押し切られた。 
  同月9日の朝、須田は、五反田事務所に出社した東京ふじせ企画社員に対して、社告として学研の業務が引き上げになったことを伝えた。しかし、前日の工藤の指示もあり、学研が業務引き上げの主体であることは明らかにしなかった。 
  午後、工藤、須田は共に学研に赴き、黒川、角宮、村田と会った。黒川は、「工藤さんが仕事を返してきたことにして収拾するから、あなたが責任を持って処理しなさい」と須田に伝えた。黒川は、具体的な方策として、「東京ふじせの非組合員からは辞表を書かせてふじせ企画に再雇用する。組合活動は一切しない旨の誓約書を提出させる。組合員についても改心するなら非組合員と同様に辞表と誓約書を書かせる。東京ふじせは仕事が入らないので手形決済ができずに倒産する。東京ふじせに残った組合員は仕事も収入も断たれて兵糧攻めになる。」との説明を行った。角宮は相づちを打っていたが、村田は「学習の方は、それでは困る」と反対した。しかし、黒川が断を下した。須田も反対しても仕方がないものと考え、東京ふじせ企画なりの努力をする旨返事した。誰が組合員で誰が非組合員であるかについての分別を角宮から求められた須田が、本社ビル科学編集部へ派遣されていた東京ふじせ企画の社員について「皆、組合員だ」と言うと、角宮は小松と染谷については自分が責任をもって辞表を出させると述べた。
  その後、工藤は、戸谷から呼び出しを受け、大森の喫茶店で戸谷、山本課長、福田課長と会い、戸谷から、黒川より学研第2ビルも業務引き上げとの話がきているが、現場責任者としては困る旨打ちあけられた。工藤は、黒川より第2ビルもひきあげなければ効果がないと言われているため、自分の一存ではいかんともしがたい旨答えた。
  須田は、この日の午後6時、被告組合との団体交渉を行った。しかし、業務引き上げについては被告組合も、須田の裁量を越えた力が働いていると受け止め、工藤との話し合いを求めることとした。
  この団交終了後、須田は、ふじせ企画を通さずに東京ふじせ企画と学研との直接契約ができないかにつき、学研の渡部専務に会い相談を持ちかけた。
  同月10日午前、被告組合員の話合いの要請に工藤が応じたので、組合員らは、西神田の事務所に赴いたが、工藤は「業務を戻して欲しければ組合を解散せよ」との一点張りだったため、交渉は物別れに終わった。
  他方、須田は、朝、学研第2ビルへ赴き、戸谷、山本課長と会って、第2ビルの業務については、これまでどおり継続ということで話を進めたが、その最中に角宮から連絡が入り、本社へ呼ばれ、角宮から「学研の業務はすべて止まるのであって、第2ビルについても別扱いは無理だ」と言われた。
  しかし、この日、学習編集部から東京ふじせ企画の社員(労働組合員)に「○年の学習」業務が一時発注されかかり、その後すぐに撤回される、という事態がおきた。これは前夜、話し合いを求めてきた被告組合の態度から工藤が、「組合は解散する」と学研側に伝えたためであった。
  これにつき、角宮は、夜間に須田に電話してきて「学研は人事部がらみで動いて協力しているから、安心して処理してほしい、君も男を上げるチャンスだ」と述べた。
  一方、同日夜、金丸精男(ふじせ企画役員、以下「金丸」という。)は被告組合の執行委員長である溝口啓一郎(以下「溝口委員長」という。)に会い、「業務引き上げは本当だ。三役署名入りの組合解散書を月曜日(同月12日)の午前10時までに黒川のところへ持って行けば業務は戻る」と語った。
  また、同日、「どっかんV」編集長脇田は、学研本社に派遣され同業務に従事していた東京ふじせ企画従業員横山卓(組合員)に対し、同月8日に業務が引き上げられた「科学」「学習」に続いて、同月12日には、東京ふじせ企画から学研へ出向した社員の業務(「どっかんV」、「教育ジャーナル」)も引き上げになり、社外退去などのつらい目にあうことを示唆して「組合が解散しないと東京ふじせ企画は学研から切られることになるだろう。君自身が組合を取るのか仕事をとるのか」と迫っている。
  同月11日、工藤は、夕方、須田に電話し、学研の業務は全てが引き上げるになる旨、通告した。
  また、金丸も、同日夜から翌朝にかけて、溝口委員長に対し、まだ間に合うからと言って、執拗に黒川に提出する被告組合解散書を催促してきた。
  同月12日早朝、工藤は、須田に電話し、学研第2ビルへ行き、戸谷に謝罪して東京ふじせ企画の全員を連れ帰るように指示した。須田は、戸谷と会って話をしたが、戸谷は、「仕事が止まっては困るが、学研としての方針なら仕方がない」と言った。
  その後、須田は、学研本社へ行き、黒川、角宮と会い、周囲にいる学研の従業員に聞こえるように、被告組合がもめており学研に迷惑をかけると困るので仕事をひきあげさせていただく旨を述べ、黒川、角宮は、困ったが早急に解決してほしい旨を答えるという問答を演じた。黒川らの周りには全学研労組員もいた。そして、須田は、午後、再び学研第2ビルへ行き、東京ふじせ企画従業員全員を引率して引き上げた。
  この後、経過的には学研からの業務が東京ふじせ企画にわたることは二度と無かったが、同月12日以降も、学研からの被告組合解散への働きかけ、被告組合脱退のための切り崩し工作が行われた。同月12日ころから工藤は、学研の指示に従い、黒川、角宮と連絡を取り合いながら、被告組合の前から姿を隠すために東京を離れていた。そして、同月16日ころから、ふじせ企画金丸が工藤から全権を委任されたとして、「組合の解散を確認する書面を黒川局次長のところへ自分が持っていけば、業務は戻る」と被告組合員らに対して述べ、被告組合解散の働きかけを続けた。
  同月16日には、角宮が「兵糧攻めが効いている頃なのでそちらでまとめるように」と電話で工藤らしき相手に指示していたことも明らかになっている。  
  また、教科図書編集部の山本課長から東京ふじせ企画五反田事務所に再三にわたって電話があり、同部で働いていた竹内輝夫被告組合副委員長(以下「竹内副委員長」という。)に「組合を解散して早く戻ってくるように」と説得を試みた。これを受けた竹内副委員長が「マイコーチ」を統括する中学雑誌編集局の児山局長に仕事をさせて欲しい旨の申し入れを電話で行なったが、児山局長から「学研の上のほうで決まったことなので仕方ない」と断られた。
  被告組合は、行方が判らない工藤を引き出すために、金丸の説得に応じて話し合う旨を伝え、同月19日には五反田のニシキホテルを会場に、工藤が説明会の場を設けるように仕向け、途中から団体交渉に切り換えて、工藤に業務を元に戻すように迫った。工藤は、「学研が被告組合を認めない、被告組合を解散しなければ学研から業務は戻らない」とくり返し、学研に持っていく被告組合解散書の提出を求めたので物別れに終わった。工藤は、その足で学研第2ビルの戸谷と学研本社ビルの黒川の所へ、結果報告に行った。報告を受けた黒川は「組合が潰れそうにないなら不渡りを出させろ」と言った。すなわち、同月12日までの業務引き上げを被告組合潰しの第1の期限とすると、この同月19日が第2の期限であり、同月19日以降は東京ふじせ企画倒産に踏み切ることを示唆し始めたのである。
  また、学研第2ビルの教科図書編集部の「マイコーチ」編集担当者の岡田編集長らは、同「マイコーチ英語」業務を担当していた東京ふじせ企画の非組合員1名と及び被告組合員安良ら3名に対して、12月17日水道橋の喫茶店にて、クリスマスの頃の忘年会にて、年末に新宿の酒席にて、それぞれ執拗に働きかけて、被告組合をやめて東京ふじせ企画に辞表を出し、学研と直接契約して業務を継続するように勧誘した。その結果、二人の被告組合員が被告組合を脱退するに至り、1名の非組合員と共に12月末から「マイコーチ英語」業務に就いた。
 学研本社関係では、角宮が2名の東京ふじせ企画従業員に辞表を出させて、従前担当していた業務を継続させた。
  また、黒川、角宮、工藤は、「○年の科学」業務を、名ばかり管理職であった東京ふじせ企画の次長、副編集長ら5名に継続させようと図り、年明けの1978年1月22日に九段のグランドホテルに集め、工藤が説得に当たったが、非組合員の彼らも学研と工藤のやり方に批判的であったため、これに応じた者はいなかった。
  学研の業務引き上げにより東京ふじせ企画においては一切業務が遂行されていないにもかかわらず、12月16日、学研からふじせ企画に対し従前どおり12月分の請負代金全額が支払われた。
(4)東京ふじせ企画の倒産
  工藤は、黒川の命令を受けて、1977年12月末頃から、須田に対して「学研が業務引き上げに協力してくれたうえ代金も全額支払ってくれているのだから、早くなんとかしないと立場がなくなる」旨述べて、被告組合員のいる東京ふじせ企画に不渡りを出させ倒産させることを示唆するようになった。これに対して須田は抵抗し続けた。そこで、工藤は、須田が星次長に渡したニシキホテル使用代金相当の小切手につき、1978年1月10日に不渡りを出させた。
  そして、同月20日に第2回目の手形不渡りを出して、東京ふじせ企画は事実上倒産した。同月末ころ、学研から工藤に対し毎月の請負代金より少ない500万円の資金援助があり、これによって東京ふじせ企画従業員の1月分の給料も支払われた。須田は、東京ふじせ企画の自己破産の申立てを行い、同年3月9日、東京地方裁判所により東京ふじせ企画に破産開始決定が下された。
  500万円の資金援助は学研の古岡秀人社長決済でなされ、この件に関し、須田は同年1月26日、工藤の指示に従い、学研の杉山(経理担当部長)と名乗る男と横浜で会見している。
  被告組合員は同年1月20日付で全員が解雇を通告された。
  須田は、1977年12月中ころから倒産・破産の直前まで、被告組合との間で解決の道を見いだそうと、東京都労働局や労政事務所に斡旋を依頼するなどしたが、実現に至らなかった。この過程で、1978年1月11日、品川労政事務所で、被告組合は工藤、須田と立ち会い団交を持ったが、被告組合員が席を外している時にスイッチを切り忘れた録音テープに、工藤が労政事務所係官に「僕の方で処理するしかない・・・僕の方でやるように命令を受けている」「学研としては自分のところが不当労働行為をしたことを一切知られなければ何とかする(金を出すという趣旨)と言っている」と本音を語ったものが記録されている。
  倒産・解雇攻撃を受けて、被告組合は「業務の再開」と「解雇撤回」をめざした争議を展開していった。須田との団体交渉で事実の究明を行いつつ、逃亡する工藤への団交要求を行った。そして、学研経営に対しては、最初「東京ふじせ企画社員一同」の名で業務打ち切り・東京ふじせ企画倒産についての釈明を求める申し入れを行い、これを無視する不誠実な学研経営に対して、学研労働者へも訴える形で学研本社前での情宣を開始していった。その中で、ふじせ争議と密接に関連する全学研労組の争議との出会いが生まれた。全学研労組も、同じ根を持つ問題としてふじせ争議を共同の課題として学研経営に共に解決を迫っていくことを決定し、両労組の共闘が始まった。
 (以下はまたの機会に掲載します)
2・24損賠本訴第3回口頭弁論開かれる
 昨年6月、7月に学研とココファンが提訴してきた総計1320万円の損害賠償請求本訴の第3回口頭弁論が2月24日、東京地裁631号法廷で開かれました。この本訴は、一昨年秋から私たちがあすみが丘の居住者の声を組合のビラで取り上げ、ウエブサイトに転載した記事につき「名誉毀損」などとして損害賠償請求とネット記事の削除、対象ビラ配布の禁止を求めて起こしてきたものです。その本訴の最中に起こした不当な仮処分申請が何ら緊急性がないことは明らかです。組合側は、この点を含め、仮処分・間接強制、さらには新たに仙台地裁で起こした裁判など、学研の濫訴を批判する準備書面を提出しました。また、私たちがココファンの居住者と結び、ビラにその声を掲載するに至るまでの争議経過として第1回を77年〜93までの闘いとして58頁に及ぶ記載の準備書面も提出しました。残り20年分がありますが、裁判所に学研の労組弾圧の歴史や全学研・ふじせ労組の争議の存在の歴史をしっかりと認識させる内容です。 
 会社側は、争点とははずれた組合の社前行動等の証拠を提出(例によって組合ビラ)し、「団交要求=嫌がらせ」をくり返しているなどと述べ、1・27裁判所抗議行動についても「司法判断を無視して嫌がらせ行為を続ける意思を示している」等の誹謗を連ねた準備書面を提出しました。「YことS」などと被告の特定も間違えたずさんな提訴に関して、SさんとYさんの関係についての求釈明にも「Sは、ウエブサイトを共に運営し、社前や株主総会で演説を行うなど、相当程度重要な役割を果たす一人である」との答えになっていない主張。裁判長も「それだけですか」と問わざるを得ず。訴訟そのものが不当ですが、特にSさんを被告として維持する根拠は全くないのに学研側は居直っています。この日、学研がわざわざ別件で起こした第1次、第2次の訴訟を併合することも決定されました。
移送請求却下に即時抗告を行う!
 学研HDは、事業会社=東北ベストスタディと仙台地裁にも同事業会社への名誉毀損として660万円の損害賠償請求を行ってきています。仙台まで呼び出そうとする嫌がらせ訴訟に対して、2月4日に東京地裁への移送請求の申立を行いましたが、3月3日に不当な却下決定が出されました。すぐ、仙台高裁に抗告し、争っています。
現場ー法廷を貫き、民事弾圧を打ち破るぞ!
 2月12日、朝7時半から学研本社前で朝ビラ配布、学研労働者と地域へ訴えを開始しました。8時半頃、工藤監査役、続いて木村常務が出社しました。「争議を解決しろ」と抗議のシュプレヒコールを上げました。私たちが情宣を終えて、社前座り込み行動に移ろうとする9時ちょうどに宮原社長を乗せたレクサスが到着。車の周囲から抗議のシュプレヒコールを浴びながら地下の駐車場へ走り去っていきました。この日は凍てつく寒さでしたが、10時近くまで社前行動を打ち抜きました。
 3月12日には、久々に暖かい天候の中、12時半〜14時まで、本社前での座り込み抗議行動を多くの仲間の結集で打ち抜きました。

                       3・12学研本社前行動