学研の仕掛けた民事弾圧=損害賠償訴訟
が始まる!9月30日 口頭弁論へ
学研ホールディングスと学研ココファンは、私たちがビラに掲載した「学研ココファンあすみが丘」についての記事が「名誉毀損だ」として、今年6月に1100万円の損害賠償金の支払いと、ビラを転載したふじせのウエブサイト(「発信25時」のふじせ闘争)の記事の削除と同文のビラ配布の差し止めを請求する訴訟を起こしてきました。
そして、さらに7月になって、私たちが6月25日に社前で配布したビラ(「パルス」6月号)と7月5日に東京国際ブックフェア会場で配布したビラについても、計110万円の損害賠償請求など、同趣旨の訴訟を起こしてきました。ビラにはあすみが丘について新しいことを記載しているわけでもないのに、「追加」でなく、わざわざ「別件」で6月の第1次訴訟と同じ多数の「証拠」のコピーと対象の2回のビラとウエブサイト記事を加えて出してきました。裁判所への呼出し期日が別個に入れられる、という私たちへの嫌がらせを狙ったものなのでしょうが、弁護士事務所から会社には余計に請求が行くことになり、弾圧にさらに金を費やすだけのことに。かつて、大橋監査役が、民事弾圧について、「弁護士に金を使って愚かなことをした」と述懐していたのが想起されます。8月19日、9月2日と別件で出廷期日が指定されましたが、被告代理人の都合が悪く、いずれも事前に簡単な書面を出しての「擬制陳述」となり、事実上、次回からが口頭弁論開始となりました。私たちは、「2件の事件は併合に」との申請をしましたが、まだ初回はそうならず、9月30日午前10時から東京地裁の同じ631号法廷で行うことになりました。
いい加減な学研HD側の訴状、冒頭で修正迫られる!
学研HD側が「訴状」でふじせ労組、支援共闘会議および、両組織の代表者個人の計四者を被告に据えて名指ししてきたものの、支援共闘会議代表の氏名を「○○○○」こと「□□□□」などと、代表が偽名か筆名を使っているかのように記載していることにつき、組合側は、擬制陳述の「答弁書」で、「○○」と「□□」は別人格で支援共に存在し、「○○こと□□」なる人物は存在しないことを示しました。学研HDの「訴状」のデタラメ、いい加減さが早くも露呈していますが、裁判所からも迫られて、9月30日は、この被告の特定につき、原告側が、どう修正して出してくるかが注目されます。
私たちは学研経営の仕掛けた闘争潰しの民事弾圧を許さず、真っ正面からこれを打ち破る法廷闘争-現場闘争を展開していくつもりです。
私たちは何故、闘い続けているのか(1)
「学研ーふじせ闘争」は大変長い争議になっています。学研で働く皆さんの中で35歳以下の方はまだ生まれていなかった頃に争議が起きています。それ以上の方々も、大方が未だ学研に入社していない、という勘定になりますから、争議のことを直接には知らないことになります。私たちのこのニュースは読んでいただいていますが、争議がどうして起きたのか、何故、私たちは闘い続けているのかをいつも掲載しているわけではないので、この機会にお伝えしていきたいと考えています。是非、読んで知ってください。
学研の急成長の陰で
学研は、基幹雑誌の学年別学習誌「科学」「学習」で急成長した会社ですが、それは直販システムという独特な販売方法で売られていました。創業者の古岡秀人が、戦犯(子どもたちを戦争にかり立てた犯罪とのことで)追放で職を失った元校長などを使って代理店組織を創り、そのコネで学校直販というスタイルで学校現場に入って行ったと言われています。昔は学校の校庭などで「科学」「学習」が売られていたのを私たち年配者は知っています。しかし、1970年に日本消費者連盟から特定の企業が特権的に商売を持ち込むことはおかしいと告発され、以降、学研は学校現場から撤退して家庭訪問販売事業に切り替えていきました。古岡社長には、戦後立ち上げた教育出版社が取次に冷遇される中で、独自の販売ルートを開拓していった商才はあったのですが、この学校直販システム形成にも、戦犯問題のみならず、影の部分が指摘されています。古岡秀人創業社長神話は、後に崩れていくのですが、一代で大会社を築きあげた社長は、絶対的な権力を持ち、大きくなっても古岡個人商店の発想が抜けず、ワンマン支配が続きました。
従組改革運動から労組結成へ
その一つが、社員が経営者にもの申すなど許さない、という姿勢で御用組合しか認めないということがありました。しかし、その下で作られた従業員組合の中でも、心ある労働者は、これはおかしい、労働者の不満の声や要求はちゃんと取り上げるべきだと考えます。やがて、従組改革運動が起こります。それをも会社は潰そうとしますが、この運動が母体となって、1973年に従組から独立した全学研労働組合という労働者のための組合が結成されました。二千名を越える社員の中で八〇名で旗揚げし、次々と新しい労働者が加盟し、すぐに二〇〇名程になります。これに危機感をもった古岡秀人社長の意を受けた学研人事部が先頭になって暴力的な組合潰しが始まりました。「学研生活を守る会」という管理職を中核とした組織を作り、春闘などで腕章を着用しただけで集団で襲いかかり、はぎ取る、職場で少数の労組員を取り囲んでつるし上げを行う、等の暴力的な組合潰しがエスカレートし、労組員に対する遠隔地などへの不当配転、14名の解雇、賃金差別、仕事干し等々が行われました。
労組対策で、ふじせ企画を導入
ふじせ企画は、この全学研労組結成直後にそれへの労組対策用に導入された会社です。学研の基幹雑誌「科学」「学習」の編集部に全学研労組員が多くいたことから、ストなどを打たれても影響が出ないようにする、との位置づけから労組員の仕事を取り上げ、それをふじせ企画に回して、しかも低賃金で使う、ということを行っていきました。ふじせ企画は、学研のただの下請編集プロダクションの一つではなく、労組対策の会社という独特の位置を持った存在でした。
ふじせ企画の労働者は、労組対策用の会社などと知らずに入社しますが、すぐにその事実を知らされた上に、連日、学研本社と五反田事務所を往復したり、本社や2ビルに派遣された者も、学研の管理職からの指示を受けて取材、原稿依頼、編集・校正作業に追われ、特に学習・科学では、月に120~150時間もの無給での長時間残業、低賃金の劣悪な労働条件で働かねばなりませんでした。学研からの業務委託代金で成り立っていたふじせ企画では、社長は残業代など出せないと考え、時間外手当の代わりに代休を取らせるとしていましたが、代休を消化することもできず、過重労働が心身を蝕んで行きます。これ以上、黙って働き続けるわけにはいかない、との思いが募り、1977年12月に労働条件を少しでも改善させようと、私たちは東京ふじせ企画労働組合を結成しました。五反田のふじせ企画は正式には東京ふじせ企画と名称変更されていて、知らずに入社前に面接で会った須田博東京ふじせ企画社長は実権がなく、工藤英一ふじせ企画社長が学研から請け負った仕事を東京ふじせ企画の社員が行うという形式にされており、この名称となりました。
ふじせ労組結成に対して直ちに35名の業務総引き上げ
12月5日に結成通告を須田博東京ふじせ企画社長に対して行いました。彼は、すぐに西神田の工藤英一ふじせ企画社長に電話で連絡、駆けつけた工藤社長は、五反田の事務所に入るなり、組合員を突き飛ばし、「お前ら、組合なんか作ってどうなるか分かっているのか、この会社は学研の労組対策でできた会社だ。潰れるぞ」と興奮して怒鳴り、すぐに学研に報告に行きました。
そしてわずか一週間で全ての学研からの「委託編集業務」が総引き上げされ、一ヶ月後には東京ふじせ企画が倒産させられ、全員解雇となる中で争議になったわけです。一挙的で暴力的なこの学研の対応は、学研の労組対策用の会社だったふじせ企画に労組ができたことが、学研経営にとって大きな危機感を与える衝撃的な出来事であり、慌てて潰しにかかってきたことを示すものでした。
かくも長い争議となっている原因は
以降、長い争議になっていきますが、長期化の一番の原因は、言うまでもなく学研経営が私たちとの一切の話合いを拒んで、和解・解決を図ろうとしないことです。学研は終始一貫、「業務はふじせ企画社長の側から一方的に返上された」というあり得ない主張を行って、学研は関与していないかのように振る舞ってきました。最初、学研は「東京ふじせ企画の労働者とは雇用関係がないから会って話す必要はない」と言っていました。しかし、「業務を一方的に返上されて困った」と一方で言いながら、当初、組合としてではなく東京ふじせの労働者が事情を聞き、場合によっては釈明を求めたいと申し入れた話合いの場にさえ出てこないのは不自然極まりないことでした。学研に組合潰しの意思がなく、業務を継続して欲しかったなら、ふじせの現場の労働者の声も聞き、工藤・須田社長らにも事情を確認して善処を求め、業務を再開すればよかったのです。実際は、組合潰しを工藤社長、須田社長に指示したのは学研であるから、組合とは一切会おうともしなかったのです。
真実を認定した85年の損害賠償訴訟判決
後に学研が居直りの手段に使う、学研の争議責任と使用者性の存在を争った労働委員会命令と行政訴訟判決が出され、今回の訴訟でも学研HD側がこれを根拠に、東京ふじせ労組の争議行為を、正当性を欠いた学研への嫌がらせであるかのように主張していますが、この主張がいかにインチキか、も明らかにしていきます。
その前に、まず、学研との争議につき最初に判断が示された判決につき触れておきます。東京地裁民事31部が1985年10月に出した判決があります。会社側には正に「不都合な真実」なので、原告の証拠として出されていません。この判決は、学研が東京ふじせ企画労組を解散に追い込むために業務総引き上げをしたことを明確に認定し、また学研が東京ふじせ企画労働者の実質的な使用者の位置にある事実にも触れています。この裁判は、倒産した東京ふじせ企画破産管財人が起こした損害賠償訴訟で、言わば経営同士の争いなので、消極的ではあれ、委託契約の解除に同意したのであるから東京ふじせ企画からの損害賠償請求権は認められない、という主文は原告敗訴の判決ですが、私たちも証人になるなどしてこの裁判に関わる中で、裁判所が証拠・証言を具に検証した上で、判決文では組合の正当性、学研の不当性を認める厳正で的確な判断をしている立派な内容を持ったものです。
学研経営側の虚偽の主張は明白
この裁判でも、工藤ふじせ企画社長、須田東京ふじせ企画社長を学研に呼びつけて「ショック療法で組合を潰す」等の指示を出した黒川巌学研学習科学編集局次長らが学研側証人になりましたが、彼らは、工藤社長らを呼んで指示を出したとされる時刻には社内会議に出ていた等で二人に会っている時間などなかった、そのアリバイは業務日程のタイムスケジュールを記載した手帳の記載からも明らかであるとの虚偽の証言を行いました。しかし、手帳は探してみなければどこにあるかわからない、とかプライベートな記載もあるから法廷に出せない、等の弁解をし、証拠として出さなかったことや、数々の不自然な証言から、信用性がない、と裁判官に認定されたのでした。
この損賠訴訟判決は揺るぎない真実を認定し、その根拠を否定できるような判断は出されるべくもないものでした。しかし、真実をすり抜ける動きが都労委から始まります
・・・・・・・・・・・・・・。 (次号につづく)
<夏の闘いの報告>
7・30学研社前行動
7月30日、争議解決を求め、学研本社前での行動を行いました。7時半すぎから出社してきた学研労働者、そして地域の労働者にビラを配布しました。
会社側は例によって総務の社員らを動員し、ビデオ、カメラを撮影し、メモを取るなどして弾圧態勢を敷いてきました。ビラを配布している仲間のすぐそばまで接近してビデオ撮影する総務社員も居て、学研こども園に来ていた保護者から、「勝手に顔を撮らないで」等のクレームの声が上がるほどでした。
8時15分頃、宮原社長の乗った車が、社屋の裏を回って通常と反対側からやってきました。地下駐車場に向かって走り去る社長車に抗議の声をあげました。この日は、他の役員は姿を見せず、9時過ぎまでビラ配布を行い、その後、座り込み抗議行動に移りました。10時までの行動を、最後にシュプレヒコールをあげて締めくくりました。
朝ビラでは、「争議弾圧、利用者の声圧殺、言論弾圧に身を染めて学研はどこへ行くのか」とのタイトルの記事をはじめとするニュースを載せ、多くの学研労働者、地域の人々に受け取ってもらうことができました。
7・30学研社前
8・1教育工学研修セミナー情宣行動
今年も、学研関連の教育イベント「教育工学研修セミナー」が開催された港区三田中学で、8月1日、参加者へ訴える情宣行動を行いました。8時過ぎから校門前で参加者の小中学校の教員の方たちへビラを配布しました。
今年も総務のHが派遣されて校門前で私たちの行動を監視、今回は他に総務の社員一人が来て、私たちの顔写真を撮っていましたが、私たちが抗議の眼差しを向けると、ビニール傘(この日は小雨)で顔を隠してしまいました。
多くの学校関係者にビラを渡し、学研と私たちの争議の実情を訴えることができました。
8・1三田中学校門前 ビラを受け取り会場内に入る参加者
この夏、またまた学研の不祥事?!
カビが生えていて回収。付録が膨張してしまうものも
このところ、学研の電子書籍の記述の誤りや、ひどい校正漏れなどの不祥事が続いていますが、この夏にも、雑誌『ディズニープリンセス らぶ&きゅーと 8月号』の別添付録「キラふわ❤プリンセスヴェール」にカビが付いていた、また別のダイエット本では付録が膨張してしまう、などのことが起きたそうです。クレームが付いた未来屋書店(本社千葉市美浜区)筋や学研社内からの告発情報で分かりました。
職場で困ったこと、職場の情報、ご意見などをお寄せください
最近、学研職場から情報が寄せられています。困ったこと、問題だと感じていること、ご意見などをお寄せください。匿名でも構いません。本紙タイトルのところにある住所への手紙・電話・ファクスや h25cap@mbh.nifty.comへのメールを。
また、地域で共に活動している東京南部労組では、いつでも無料で労働相談を受け付けています。southwind@mbr.nifty.comへ